自分の夢
ここのところ、どちらかというと批判的な、そして少し愚痴っぽい(笑?)ブログが多かった気がする。
でもやっぱり大事なことは、「自分の」夢に向かって進むことだなぁ、とあらためて思う。
夢というと、ぼくがしきりに書いていること・・・・未来のことばかりにいっしょうけんめいになって、現在の近くの人との小さいこと、小さい権利や約束を粗末にしてはいけない・・・ってことと矛盾しそうだけど、僕はたぶん「夢」っというのは意外と未来のこと、というのでもないのではないかな、と思っている。
高校生のころよく聞いていたビリージョエルの Vienna という歌で
”Dream on, but don't imagine they'll all come true”
という歌詞のところがあって、ぼくはそこがすごく好きだった。
夢見ろ、でも全部がかなうなんて思うな。
僕はこの歌詞にこめられた思いがものすごく好きだ。いまでも。
夢見ることは、まさに「夢」見ること。それは現在を豊かにする。そして未来をもきっと結果として豊かにする。それは、実現すべき「計画」や「企画」とはまったく違う。
もっと、青春時代からずっと心の中に燃えている火のような、あたたかく、熱く、そして消えることのない思いだ。
そして、ここが一番大事なところと思うのだが、それは基本的には、「自分だけのためのもの」だ。
その火自体を人と共有することはない。できない。
だからこそ、それはなんの争いも生まないし、なんの軋轢も生まない。ただただ自分のために灯された火だ。
でも、、ここがほんとに涙が出るようなところだけど、
火を燃やし続ける人どうしは、
お互いの火を遠くから見ることはできるし、それに答えるように自分の火がまた燃えたりする。
それは、なにものもよせつけないほど熱く、それでいて、これ以上なく平和な灯火だ。
2017.10.10.
応援歌
本当に心配していなければ
本当に心配していなければ
本当のことなど言わない
本当のことを言う人などめったいにいない
本当に
それでも
選ぶのはただ
あなた次第
2017.10.10
いっしょうけんめいはいらない
いっしょうけんめいやってるから、、
という言葉がまるで、すべてをこえる、「おまじない」のように使われる。
ぼくはそれにとても大きく疑問を感じる。
いっしょうけんめいはいらない
なかなかこれは言うのに勇気を必要とする発言だ。
「いっしょうけんめいが悪いっていうのか!そんなことあるわけないだろう」という声がいまにも聞こえてきそうだ。
もちろん、いっしょうけんめい、はとてもすてきなことだ。
ただ、それが
「本人の無邪気さに基づいている限りは」
と僕は思う。見返りを求めない無邪気ないっしょうけんめいはステキだと思う。
しかし、一番ティピカルな例としては
高度経済成長期に、「いっしょうけんめい」の目標を外から与えられていた親が、定年後時代がかわり、会社もうまくいかなくなって、自分のこどもたちにその「いっしょうけんめい」を向けたことによって、こどもが病気になる、というパターンだ。
親が本当にこどもに対して感じる熱い気持ちから「何かをやってあげたい」
そこまではよいと思う。
でもそこに「役割」を欲している自分がいたら要注意だ、と思う。
いっしょうけんめいなにかに向かうことのできる「役割」。会社で与えられていたようなそういう役割はもう「ない」のだということを認識せずに、他でそういう役割を求めて無理やり作っている大人がすごく多いように見える。
結局のところ、そのいっしょうけんめいは、こどもを破壊することになる。
他の例としては、最近、定年退職した団塊の世代が、いろんなところの町内で「なんらかの役割」を求めて、競争しあうという話をよく聞く。すでにない「役割」を求めてなにかそういう状況を作ろうとする。それは、ほんとうの「いっしょうけんめい」とはちょっと違うのではないか。いっしょうけんめいが、自然な町内のありかたを破壊する。
いろんなところで、いらないいっしょうけんめいがいろんなものを破壊している。
こどもに対する気持ちでもそうだが、違いを見抜く一点は
「見返りを期待してるかどうか」
「相手に同調してほしいと思ってるかどうか」
だと思う。
ほんとうに純粋な気持ちの「いっしょうけんめい」は、それを自分の喜びとしてやっているから、なにか見返りを期待することはない。大体において他人に気づいてもらうことすら必要としないだろう。
しかし、どこかで自分のいっしょうけんめいになれる「役割」がほしいと思ってやっている人は、そのうちに必ず、まわりに「なにか」を求めだすことになる。
ひとりでやれよ、と言いたい。
そこに何がぬけているか、というと、他人のためになにかをすることのできる「役割」ばかりを求めていて、「自分自身を幸せにする」ということが抜けている、
自分とちゃんと向かい合ったことがない人の場合がほとんどだ。
人の役にたつこと、人に認められること、それだけによって生きてしまった人。
それはとても素晴らしいことではあるが、残念ながら、今の世の中は、人もものも増えすぎてしまった。
今の世の中で一番大切なことは、いっしょうけんめい、より
「ものや人を傷つけないことだ」
と思う。
たべものもない、人も少ない、そんなところで走り回っている人はすごく役にたつ人だ。
しかし人も多い、ものも多い、そんな部屋で走り回ろうとしたら、必ず誰かがけがをする。
意外とすごく単純なことなんじゃないんだろうか。
仲良くやろうよ
そっちの方がよっぽど大事なのだ。今は。
もう地球はそういう方に向かっているのだ。
ばたばたあばれまわらないで、「楽しく」できるためにはどうすればよいか、をちゃんと考えなくてはいけない。
そのためにも、まずは「自分が何をしてたら一番楽しいのか」に気づかなくてはいけない。
それを常に人との関係に求めていたら、それは実は常になにかを壊していることになってしまう。特に、「よい未来をいっしょうけんめい作ろう」というゲームに人をつきあわせたいという欲望は一番危険だ。
未来よりまず「現在を遊ぶ」ことのほうが今は大事なのだ。
そして、まずは、現在の自分と遊んであげられること、がものすごく重要なのだ。
ひとりで現在と遊べない人は、人とも遊べないし、実は、未来とも遊べない。
そして、永遠に、がんばる、ことになり、そこには気づかない上に人と人との上下が生まれていくのだ。(そんなしんどいことはたぶん上下関係なしにはなりたたないのだろう)いずれにせよ破壊的なエネルギーだ。
不思議とそういうふうになっているのだ。
どうしてだか、無邪気でなく、「がんばる」人は、どこかで、誰が誰よりがんばっているかということを気にしている。そのうちにそれをまわりに求めだす。
そういうのは、無邪気にいっしょうけんめいというのとはまるで違うと思う。
しかし、もちろん、そういう「がんばる!」というタイプのゲームが好き、という割り切りがあればとてもよいと思う。
スポーツだってなんだって、「そういう戦いが好き!」という人どうしでやってる分にはなにも問題はない。でもスポーツの中と実社会を混同してもらっては困る。
いろんな人がいるのがこの世の中だ。
こどもにいっしょうけんめいになりすぎる向上心あふれる親は、ちゃんとスポーツでもしたらよいんでないか。
2017.10.9.
やりたいことはひとりでやれ。森脇真末味。
いろんなバンドをやったりしていて、よく思うのは、「もともとそれを誰がやりたかったか」ということをある程度はっきりさせておくのは大事なことだな、ということだ。
いろんなアイデアが出てくる、それをいっしょにやる、それは最初のうちはいいのだが、それぞれが誰がやりたかったことか、というのは僕は確認しておくようにしている。
あるバンドで、いろいろ言い合いが多くなったので、「じゃあ、もうプロデューサー制にして、今回のライブは全部この人がしきる、次のライブはこの人がしきる、ってしてみよう」とやってみたら、すごくうまくいったことがあった。
今回のライブの曲目やどんな練習をするかをしきるのはこの人、と決まってしまうと、その人も緊張感が出るし、その指示を聞く方の人も、それに答える、という役割をあたえられることで集中できる。その上で、自分の意見もいっていくこともできる。
何がよかったのかな、と考えると、要は、「責任を誰がもつか」を決めるのが意外と大事だ、ということなんだと思う。
この、「責任を誰がもつか」を便宜上決めて、それで行こう!とする、というのが、日本人は苦手なのかもしれないなぁ、と思うことがある。
日本人は、、なんてくくりかたは陳腐すぎてよくないのだが、それでもどうしてもそう思ってしまうところがあった。
でも最近若い世代の人とバンドをやっていると、そのへんが、さくさくっと楽に進むことが多く、とてもさわやかな思いをしている。
これはあなたの責任で「いきましょう」
というさわやかな分担ができるのはすごくいいことだと思う。
この「いきましょう」という「とりあえず」の感覚がないと、なかなか難しい。
「これはあんたの責任や!!」みたいな言い方になると一気に昭和、という感じになる(笑)
なすりあい・・・笑
そういうことではなくて、一応いいだしっぺが責任をとる、ということで進めましょうよ、ぐらいのことができたらもっといろんなことがうまくいくのになぁ。
人はやっぱりいろんな夢を見るのだが、意外とすぐ近くにいる人(たとえば夫婦とか)どうしでも意外とほんとうは夢の見方が最初から違っていたりする。でも最初はそれに気づかないものだ。
同じ夢を見ている、とある意味錯覚できる時間というのは割合とすぐ過ぎ去るものだ。そのことを僕は経験的に覚えた。バンドっていうのはそういうことのくりかえし、という感じがする。
もちろんそれが20年、30年といっしょに続けられることはすごく幸せなことだ。でも正直言ってものすごく稀なことだ。
なので、僕は、最初のうちから、「誰がやりたいと思って、誰の仕事としてはじめたことか」、というのを随時それとなく毎度毎度確認しあうように気をつけている。
でないと、変な誤解が生まれたりするからだ。
でもそれをはっきり「一応あなたがはじめるのですから、一応責任者はあなたということで、、」ということまで言わないとわかってもらえないことが多くなかなかしんどい。察しのいい人は、最初から、「あ、それは僕がいいだしたことだから、やるわ」となるんだけど、なかなかそういう場合ばかりでもないようだ。
自分自身も、やりたいことは基本的にはひとりでやらないといけない。とよく思い出す。
口に出してみたら至極あたりまえのことなんだが、意外とそれができてない大人が多い気がする。
そういうところには必ずいざこざが起こる。自分も気をつけなくてはいけない。
「ほんとうにやりたいことは、ひとりでやるんだ。」
若いころ姉がよんでいた、森脇真末味という少女マンガの中に出てきたセリフだ。(だったと思う。)おんなのこ物語、というバンドマンについて書いた漫画だった。
森脇真末味は、とてもアーティスティックな漫画家だった。ぼくは姉の本棚から拝借してはいくつかの彼女の漫画をよんだ。
すごく普通のセリフだけど、たしかドラマーがそのバンドを離れるときにリーダーのボーカルから言われるセリフだったかな、と思う。
「見ているのは自分一人だ」
というセリフもあったっけ。それは「愛することができるのは自分の方だ」というような意味だ。
人の期待に答えるのではない、自分が自分の世界の中で人を愛し、自分の世界ですべき仕事をする。それはある意味孤独な営みだ。
もちろん、すべてが一人、というわけではない。
でも、ひとりでもやるんだ、という覚悟がないことはやらないほうがいい。と思う。
やらないことの被害より、覚悟なくいろんなことをやることの被害の方が大きい。
日本の政治なんかそういう固まりに見える。
助けてもらったり、助けたり、それはもちろん美しいことなのだけれど、最後はやはり一人でもやるか、やらないか、だ。
そういう覚悟はひとりひとりがもっていないと揉め事になる。
そんな風に思うことが多い。
もちろん、もっと深いところでは、人と人との区別はそんなにはっきりと分けられるものではない、という事実もあるにはある。
エネルギーとしてはそうだ。
本当はもちろんすべてがつながっている。
しかし、同時に、ひとりである、という考え方も大事なことだ。となぜか思ってしまう。
なんでだろう。。
たぶん、
どうしても、あなたは、◯◯◯、、
と言いたくなるなら、
まずは自分が、、
と考えるほうがさわやかだ。というくらいのことなんだろう。
ほんとうの深いところで物理的に起きていることは、あなた、自分、のどちらでもないんだろうが、なかなかそういう視点にたつのは難しい。なので、便宜上まずは、「自分はなにをするか」を中心に考えるのが一番争いを生まないのかな、とそんなことなんだろう。
2017.10.9.
自分だけが知っている。ボブ・マーリー。
どんな人でも、自分を含めて、残念なことだな、と思うことがある。
残念といえば、残念だが、そこが人間のある意味かわいらしいところなのかもしれない。
どういうことかというと、どうしても人は「調子にのる」ということだ(笑)
でもそういうことがまったくない人をみるとほんとうにえらいなぁ、と尊敬する。
だいたいにおいて、とても地味な人の場合が多い。しかしそういう人はだいたいきちんと仕事をしている。
それとは逆に、
世界を救うような、もしくは、まわりのみんなをものすごく幸せにするようなことをいつも実際している(ように見える)本当にステキな人が、
ふと、その人の中に
「それを知っているのは自分だけだ。まわりはどうして気づかないんだろう?」
というような態度
もしくは
「まだまだ、気づいてない一般の人々」
がいる
という態度
そういう態度が生まれてしまっているのがみえるときがある。
そういうときに、その人の、真実がすこし透けてみえてしまうことがある。
基本的に
「まわりを救おう」
という気持ちの一番根底に存在しているのは、たいてい
「本人にとってのなにかの傷」
である場合が多い。
その人の網膜にうつっている「まわりにいる傷ついている人々」
それは実は、見てる本人自身の体のどこかに昔に、「しこまれてしまった」古い傷だ。
皮肉なことに「自分だけが知っている」というのは、そういう意味では、裏がえって、たしかにその通りなのだ。
幸せである、救われている、ということは
常に現在形でそこに「実際」存在している限りは、自分を含めそのまわりも幸せにしていく。それは時間を超えたよい伝染であって、意志を媒介にするものではない。
しかし、それに比べて、
未来系で「救おう」そして、その救い方を
「自分だけが知っている」
となってしまった場合は、
悲しいことに、それこそが、<この世の中で最大最強>の人を傷つける「邪悪な武器」になってしまう。
「救おう」という形をとった、本人の個人的な「傷」が、実際はまわりを単純に傷つけ駆逐していくことになる。
そして恐ろしいことにその本質が「自分はまわりよりえらいのだ」に変わってしまっていることに本人が気づかない。
そういう場合がほとんどだ。
まわりを「助けよう」「救おう」というのは、ほんとうに、紙一重でものすごいエゴにひっくりかえることもある、<もっとも危険なワードのひとつ>、と僕は考えている。
慎重に扱わなくてはいけない。そういう概念を。
身の回りで起きている、小さないざこざも、そこで原因になっているのは「言葉で表された善意」「言葉であわらされた奉仕」の場合が多い。
「あなたのことを思ってそうしているのだ」
それはほんとうに危険な考え方だ。
だまってそれをしてあげるのではどうしてだめなのだろうか?
助けたい。そういう「気持ち」になることはすばらしい。そういう気持ちになることで、まず自分がとても幸せな気持ちになれる。大事なのはそこまでだ。
言葉はおそろしいものだ。それを口に出し始めたとたん「違った効力」を勝手にうむ。
それは、その言葉を発した本人が、「ほんとうに心からこう思ってるんです」「ほんとうに感じていることなんです」といくら言ったところで、それとはまったく関係なく
物理的な作用・反作用のように
言葉でいいことをいいすぎればそれとは反対の悪い部分が
言葉で悪いことをいいすぎればそれとは反対のいい部分が
自然と出てくる。
言葉は、そういうエネルギーをうむ、「装置」でもある。
「装置」ではあるがそれは生き物ではない。
自力で、幸せである現在を認識し、それを自然にまわりに伝えていく、というような力はない。
そういう意味で、生き物のようでいて、生きていない。言葉はそういう意味で、ある意味、ものすごい手強い「魔物」である。
慎重に扱わなければ、その言葉を使う人自身が、一番最初にその罠にかかる。
才に長けた鋭さのある人は、そういう意味で、見ているとちょっとはらはらさせるところがある場合がある。まわりを助けるより、まず自分が幸せでいてほしい。単純に近くにいるものとしてはそう思う。そちらの方がまわりも幸せだ。
僕ぐらいしかいないのならしょうがないからがんばって釘でもさしたほうがいいのではないか、という気になってしまったりする。
利発で鋭く言葉が得意な人に、論戦してもまったく勝てそうにはない相手に、釘をさすなどというのは、よほど勇気も入るし、下手したらとてもこちらが傷つくことにもなる大変な作業であったりもする。
それでもがんばって釘をさすことで、その人を助けた・・・いや、違う違う。ほら、みたことか、あぶないあぶない。
そうじゃないんだ。
ほんとのことを言わなくちゃいけない。
ぼくが、その利発な人の暴力性に傷ついたから(それは僕の中にある傷だ)それをなんとかしようとして戦いに加わりたくなってしまっただけだ。
その人を助けたいのではない。釘をさす(助ける)ふりをして、暴力に参加したくなってしまったのだ。
つらい事実でも認めなきゃいけない。
そしてまずは自分を癒さなきゃいけない。「利発な人」はそのあとのことだ。
いつだって、自分の傷を暴力にかえずにどうやって癒すか、だ。
それはひとりひとりの中にある静かな「ほんとうの生きる営みだ」。
そういうわけでどんなに利発な人に囲まれても、なにもいいかえさず、やはり黙っているしかない、ということもある。
それは言葉を発してやりあうこととはまた別のひとつの、真摯な生きるための行い(戦い、ではない。)だ。
ボブ・マーリーをはじめ、レゲエという音楽の中にある、「そういうこと」を伝えている部分が僕はすごく好きだった。「ほんとうの営み」。
屈辱的な状況の中で、ほんとうの強さは「許す」ことだと気づいた音楽、というような表現をしていた人もいたが、ぼくは「許す」ということばは少し優しすぎるのかな、と思っている。
「生き残る」ために、ほんとうに「生き残る」ためだけに、なにが一番必要かを本当に考えた末にできた音楽、という気はする。
そういう音楽が、「いいですね、のんびりして、リラックスした感じで。」「なーんにも大変なことがなくて、南国で風にゆられ海辺でゆっくりしてるみたいでやってたら楽しいでしょうね」と言われるのも、すごくリアルだなぁ、と思う。けっこう演奏してる側はすごいエネルギーを使う音楽なのだが(笑)
ほんとうに普通の生きる「営み」は強さの見かけなどまとわない。
ジャマイカの陽気な島国という部分しか知らない人には、「ジャマイカ楽園の真実」というドキュメンタリーがあります。
でも、ある時期からそういうレゲエばかりではないのだな、と思うようにもなってしまったけれど。
でも、いまでも、本質は、そういう「ほんとうの強さとはなにか」「ほんとうの営みとはなにか」ということを、歌詞とかだけでなくて、音で実現した音楽だなぁ、、とは思っている。その部分を僕はほんとうに愛している。
そのまわりにまつわるいろんな「カルチャー」は、それとは別にいろんな種類のものがあって、好き嫌いもいろいろ別れるようだけど。
2017.10.3.
ひまつぶし
ぼくの親友はぼくのことを知らない
いい意味でのひまつぶし
体をつかった楽しいひまつぶし
でもその仕方はみんな違う
そしてそれぞれがそれを続けていく
でも
きっとどこかで同じお日様をあびてるってことぐらいは
会わなくてもわかる
話をすることばかりが
大事なのではない
むしろ、
しないこと
が一番大事なのだ
2017.8.21.
プロとアマ
プロはやっぱりすごいんですか?プロとアマの違いってなんですか?
プロとアマの違いについては、自分がプロと言って活動してきている以上やはりよく質問されることがある。
といっても、ぼくは見かけがプロっぽくはないようで、10年以上もつきあいがあったジャマイカ人に、ある日急に「え!JUN、あなたはプロのミュージシャンでやってるの?そうは思わなかった。」と言われて、「え、じゃあ何やってると思ってたの?」と聞いたら、すごく言いにくそうに「いや、普段は秋葉原とかでバイトしてるのかと思ってた」と言われたことがある。なんで秋葉原なんだ?とその時には強く思ったのをおぼえている。それももう10年以上前の話だが。
まぁ、それはいいとして、、
ふつうの意味でいうと、プロとアマの違いは、「それで食ってるかどうか」ということのようだ。
自分としては、「いやぁ、アマでも上手な人もたくさんいますしね、、」と言ったりする。
実際金をとってるからすごくいい音楽を作ってるとは限らないなぁ、とは本当に思う。
なので、基本的には、「プロだろうが、アマだろうが、いい音楽作る人とそうじゃない人がいますよ」というのを自分の意見としているのだが、でも、なんかそれとは別に、言いにくいのだが、「いや、そうはいってもあなたは確かにアマチュアかもな、、」と思うことがたまにある。
それは音楽の上手下手ではない。耳の良い悪いでもない。
どういう人があきらかにプロではないか。
それはプロに挑もうとする人である(笑)
(これじゃトンチみたいだけど。)
でもそういうことがあるのだ。
このことをどう説明したらよいのか今までもやもやとしていたのだが、さっきふいに、あぁそうか、と表現する方法がわかったので書いておこうと思う。言葉の整理もたまには(笑)役にたつのだ。
たまに、相手がプロということがわかっていて、「ちょっとそれに挑もうとする人」というのがいたりするのだ。
ここ数年で言われたのは、たとえば
「プロだったりしたら、こんなコード譜みたら、パーっと弾けちゃったりするんすか?やってみてくれませんか?(どうなんだ、見せてみろよー)」みたいのとか
あるいは、機材関係のことで
「これとこれを使うとこうなるんですよねぇ、、、(プロなんだからそれくらい知ってますか???)」みたいのとか。
文章だとわかりにくいが、人の表情とか言い方というのは正直かつ微妙なもので、そういうときに「ただ、聞いてる」のか「ちょっと、挑戦(もしくは自慢)しようとしてたりするか」というのはすぐわかるものだ。
<ぼくはアマチュアだけど、そんじょそこらのプロよりは音楽のことをわかってるだろう>、と自分で思ってる人なのだな、というのはすぐ顔に出るので、すぐこちらにも伝わってしまう。
そういうときに感じる変な違和感のようなものが必ずある。
でも、毎回「はて、もちろんたしかにアマチュアの人でもぼくよりコードを見てすぐばーっと弾ける人とか、ぼくより機材に詳しい人とかもちろんいるわけなのだが、、。でも、なんで僕は毎回こんなに深く?????となってしまうのだろう」と長いこと思っていた。
いどまれてももちろんいいはずなんだけど・・。でもなんでこんなに無力感におそわれるんだろう。
という長年の疑問。
しかし、ついさっき、あぁそういうのに似てるんだな、といういいたとえを思いついた。
何に似ているか。説明してみようと思う。
ぼくは、埼玉のある町で生まれたのだが、生まれたときから大学に入るまではずっとその町に住んでいた。つまり17、8年くらいか。いまではその駅前はかなり大きなビルとかができてしまったりして人も増えたけど、子供のころはその駅前のあたりをぼくは鼻を垂らしながら自転車で走り周っていた。こどものころは道路だけじゃなくて、近所の家の塀の上とか、屋根の上とかはだいたい歩いて回った。どこのうちの庭のうらから、どこの家の屋根をつたっていったら、どこに出るかとかも全部実験していた。線路を走って渡る危険な遊びもした。
その後、その町で初恋もしたし、なんどもふられた。いろんなけんかもした。親とも兄弟とも友達ともケンカをした。いろんなことでなんども泣いたし叫んだし、ひとりでとぼとぼ歩いたりもした。
もちろん楽しいこともたくさんあったし、町がだんだん変わっていくのもなんとなく感じていた。そうやって僕は大人になった。
たとえば、そんな僕のところに、かなりその町について興味をもってたくさんのことを調べてきた人(もしくは、ちょこちょこ旅行に訪れる人)が、ぼくを「プロのツーリストとか観光案内の人」か何かと勘違いして、張り合ってきたらどうだろう?
「この駅前には、〇〇っていうすごいおいしいケーキ屋があって、〇〇っていう人が創業なんすよ?(俺より知ってますか?)」とか
「この町で、こういうバスに乗ると、こういうとこに行けるんですよ(そういう知識もってますか?)」とか聞かれたら、ぼくはきっときょとんとしてしまうだろう。
いや、正直そういうことあまり知らない(あるいは知ってる)けど、だから何???
あるいは、「この町に住んでるんだったら、ぱぱっと駅までいけちゃったりするんすよね。やってみてくれませんか?」とか言われたら、「なんで毎日やってることをやってみせなきゃいけないの?」って思うだろう。
そういうのにすごくよく似ているな、と思った。
プロのミュージシャンに挑もうとするアマチュアの人にとっては、その町の「住人」と「その町の観光案内のプロの人」の区別がついてないくらい、なにか大きな勘違いをしている気がする。
あぁ、そういうところが大事と思ってるのか、、ということはわかるのだが、答えることができない。あまりに視野が狭すぎて。そこじゃない、ということを教えてあげたいが、そういう人は勝つことばかり考えてるのでこちらが伝えるのもすごく難しくなってしまう。はぁ、たしかにあなたのそこはすごいですね、というしかない。
こう考えてくると、やっぱりこの文章で僕がつかっている「プロ」「アマ」っていうのはお金をとってるかどうかではないのだな、と思う。(普通の言葉の使い方とは違うことを書いているのかもしれないと思った。)
まわりのミュージシャンを一人一人考えても、ずっとバイトしてようが、ぼくが絶対「アマチュア」とは思ってない人が、たくさんいる。
しかしそうやって挑んでくる人は、確実に「アマチュア」だ。
ぼくの大親友に、ずーーーっと他の仕事をしながら50年近く、自分の音楽を作ってるやつがいる。テクノとかアンビエントとか。
彼は録音も大好きだ。彼はぼくが学生のときから町で会うと、ヘッドフォンをかけながらマイクを持って町の音を録音して歩いてたりしてた。それが日常なのだ。
曲を作っては、それをためておいて、何ヶ月もたってからそれを聞く、そして少し直す。そしてまた何ヶ月もおいておく。ということを何十年も続けている。一人で熟成酒をずっと作り続けている杜氏の人みたいなものだ。
彼は恐ろしく耳がいい。ある意味では僕より耳がずっといい。
耳の良さもいろいろな角度があるから、ぼくはぜんぜんそれを素直に認めることができる。
そして、彼はずっと他の仕事を続けることで自分の音楽を守ってきている気さえする。そういう意味では仕事の仕方という意味でも、ずっと音楽をやってきている自分に対する戒めとして彼の生き方は僕にとって大事な教師にもなっている。
彼は僕にとっては完全に(どちらかと聞かれたら)「音楽のプロ」である。アマチュアとはみじんも思わない。(でもある意味聞かれなかったら、プロとかアマとかいうのも失礼な気さえする)。やはり尺度はお金ではない。
そして、もちろん、彼は、絶対に「挑むようなこと」は言わない。いうわけはない。彼は音楽の村の住人だから。何が大事かよくわかっているのだ。
もちろん、いろんな部分的なテクニックというものは音楽にもある。なんにでもあるだろう。
そして、プロと言われる人でもそれをもちろん全部知っているわけではない。
だからどこか一箇所でプロに勝つことはたぶん場合によってはそれほど大変ではないのかもしれない。
しかし、一方で、むしろ、「どれだけ自分が知っていないか」を知っているのがそのジャンルの住人だ。と僕は思う。そしておそらくそれをコンプレックスには思っていない、ということだ。だってそこに住んでるんだから。
その町にずっと住んでいれば、自分が知らないその町のことを知っている人の存在がまわりにずっとあるわけだ。
つまり、町の何かについて自分が知らないという事実、あるいは、それについて「おそらくこのくらい知らない」という知識(というかそれを知るのは「知識」よりもっと深い「感覚」な気がする)こそがちゃんとついていくわけだ。
俺は「ケーキ屋の由来は知らん」しかしちゃんとここに住んでいる。
全部を知らなくとも、その町にずっと住んでいる、ということにもっと別の深い意味があるわけだ。
そこのケーキ屋の由来など知らなくても、そこのケーキ屋の前を何千回と通っていればそこの入り口の風情や、そのケーキ屋さんの佇まい、そういったことを肌で感じている。それを「毎日」感じているのだ。
たとえば、そのケーキ屋さんについての詳しい情報を話す人がぜったい周りに何人かはいただろう。でもあえて「それを自分は覚えなかった」という貴重な経験をしてきているともいえる。何をいってるか伝わるだろうか。
その町に関する知識や技術を競おうとする、という時点で、ちょっとその町の住人ではないことがばれてしまう、ということが世の中にはあるのだな、と今日あらためて思ったのだ。
たとえば、もし機材に詳しくなくても、プロのミュージシャンは「自分がどのくらい機材に詳しくないか」を逆によく知っている、と思うのだ。そして知らなくても「その先にどれくらいのことがあるか」はなんとなくわかっている。肌で。
そして、「知っている」ことの量よりも、
「いかにその人が自然に、自分がその分野について<何を知らないかを知っているか>」
ということのほうがよっぽど、その人がその物事に通じているかどうかを図る尺度になる。ということなのではないかと思う。
そういう意味では、どんなに有名なミュージシャンでも「プロたるものは、、」と後輩に「知ってるかのように」説教を垂れるタイプのミュージシャンを僕は基本的にあまり信用できない。売れてたりはするのかもしれないが、この町に長くは住んでないのだな、と単純に思う。そして、ほんとにこの人の音はいいんだろうか?と疑ってかかる。そして、そういう疑いはあまりはずれたことがない。
もちろん「音楽業界」における常識みたいなのもあるんだろうが、そういうのが全面に出ちゃっていると、なぜだか逆にアマチュアっぽく見えてしまったりするし、それがまた音にも出てしまうものだ。だって町の観光ガイドに乗ってるのは、その町の一部分である、というかほとんどメインのことではない。観光ガイドにもいろいろあるように、「業界」っていうのも世界とか地域でいろいろいくらでもいろいろある。そこにはそれぞれ楽しさはあるかもしれないが、別にそれだけのことだ。それぞれがうるさくいろいろ「言っている」だけだ。
そんなの読んでも「町のことなんか全部わからない」とわかっているのがその町の住人だ。
<いや、ぼくはそのケーキ屋さんについて何も知りませんよ。>
そう言える人のほうが、はるかにその町の住人なのだ。
<自分はプロだかアマだかよくわかりません。>
そういう人の演奏のほうがよほどすごかったりする。
ずっと「そこで」暮らしている、ということをなめてかかると、単純にちょっと滑稽なことになってしまうのだと思う。
猫や花にケンカを売っているような風景になる。
はて?なにをそんなにいきりたっているのやら。と。
あなたが他のことをしている時間、その人たちは、ただ「そこに」ずっといるのだ。 その町の知識について、「競おうとしている」「いどもうとしている」その時点で、その人はその町の住人ではない。
知識はどこまでいっても「存在」に勝つことはできない。
「存在」は勝負をしようとしてはいないからだ。
なめている方の人が、心の中の勝負をいっしょうけんめいひとりで世界に向かって叫んでいるようなことになってしまう。
「私は心の中でこんなに競争をしています!!」
猫も花もそれには答えようがない。
(私はここにこうしているだけです。)とさえも、言わないだろう。
いうことができない。生活というのはある意味そのくらいなんというか普通のことだ。
それをすることが普通の生活になっている、そういう人が、まぁ「プロ」なのかな、と思う。静けさがない人はまだただあこがれている人だ。悪口ではなくて、だれでも生活は地味なものなのだ。だからそれはしかたのないことだ。それをしてきた人はしてきた人だ。
そういう意味では、そこに「ない」競争にあこがれていられることの方が、ある意味「遠くが」とてもキラキラ輝いて見えていられるからすてきなのかもなぁ、、と皮肉半分で思ってしまうこともある。
でも笑っていられる問題でもない。「競争」のイメージを作りだすのはたいてい外側のほんとにはその町には住んでいない人間だ。ほんとはどこでも生活に根ざしたものに本質的な競争はない。それは教育現場でもほんとうにそうだと思う。競争を教えこむことは本人の能力を閉ざすもっとも有効な手段だ。
競争を教え込むことで、かえって実際には「ない」競争を心の中につくりだし、その瞬間に自分から妄想に負けにいくことになる。悲しい話だ。
こういうことをいうと、いや実際に競争はある!という人もいるが、実際にある競争については、ことさらに教える必要などないのだ。それは体験すべきことであって教えるべきことではない。しかしこういう理屈がわからない人もたくさんいる。
だから、あなたはもっとすごい場所で活躍できるのに、とか、もっとすごいところにいっていいのに、、というようなことを言われるときにもよくとまどってしまうし、ある意味本能的に少し警戒する。あきらかにただ無邪気にほめてくれている場合もあるが、そうでない場合も多々あるからだ。
やっぱりその町を愛している人(というと大げさかもしれない)、その町で暮らしている人、というのはぜったいにその町の一部に関する知識を競争の手段にしたりはしないものだ(おもしろがって遊ぶことはあるかもしれないが)。
人に何かで挑もうとする人は、それをほんとうには愛していないのだな、と思う。
その人にとっての一部分のことでしかないからこそそういう「手段」にできるのだ。
住むこと、生活すること、は、戦うことではないのだ。
2017.8.9.