あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

ひまつぶし

ぼくの親友はぼくのことを知らない

いい意味でのひまつぶし
体をつかった楽しいひまつぶし
でもその仕方はみんな違う
そしてそれぞれがそれを続けていく

でも
きっとどこかで同じお日様をあびてるってことぐらいは
会わなくてもわかる

話をすることばかりが
大事なのではない
むしろ、
しないこと

が一番大事なのだ

2017.8.21.

プロとアマ

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 プロはやっぱりすごいんですか?プロとアマの違いってなんですか?


 プロとアマの違いについては、自分がプロと言って活動してきている以上やはりよく質問されることがある。
 といっても、ぼくは見かけがプロっぽくはないようで、10年以上もつきあいがあったジャマイカ人に、ある日急に「え!JUN、あなたはプロのミュージシャンでやってるの?そうは思わなかった。」と言われて、「え、じゃあ何やってると思ってたの?」と聞いたら、すごく言いにくそうに「いや、普段は秋葉原とかでバイトしてるのかと思ってた」と言われたことがある。なんで秋葉原なんだ?とその時には強く思ったのをおぼえている。それももう10年以上前の話だが。


 まぁ、それはいいとして、、
 ふつうの意味でいうと、プロとアマの違いは、「それで食ってるかどうか」ということのようだ。
 自分としては、「いやぁ、アマでも上手な人もたくさんいますしね、、」と言ったりする。
 実際金をとってるからすごくいい音楽を作ってるとは限らないなぁ、とは本当に思う。
 なので、基本的には、「プロだろうが、アマだろうが、いい音楽作る人とそうじゃない人がいますよ」というのを自分の意見としているのだが、でも、なんかそれとは別に、言いにくいのだが、「いや、そうはいってもあなたは確かにアマチュアかもな、、」と思うことがたまにある。
 それは音楽の上手下手ではない。耳の良い悪いでもない。

 どういう人があきらかにプロではないか。
 それはプロに挑もうとする人である(笑)
 (これじゃトンチみたいだけど。)

 でもそういうことがあるのだ。
 このことをどう説明したらよいのか今までもやもやとしていたのだが、さっきふいに、あぁそうか、と表現する方法がわかったので書いておこうと思う。言葉の整理もたまには(笑)役にたつのだ。

 たまに、相手がプロということがわかっていて、「ちょっとそれに挑もうとする人」というのがいたりするのだ。

 ここ数年で言われたのは、たとえば
「プロだったりしたら、こんなコード譜みたら、パーっと弾けちゃったりするんすか?やってみてくれませんか?(どうなんだ、見せてみろよー)」みたいのとか
あるいは、機材関係のことで
「これとこれを使うとこうなるんですよねぇ、、、(プロなんだからそれくらい知ってますか???)」みたいのとか。

 文章だとわかりにくいが、人の表情とか言い方というのは正直かつ微妙なもので、そういうときに「ただ、聞いてる」のか「ちょっと、挑戦(もしくは自慢)しようとしてたりするか」というのはすぐわかるものだ。

<ぼくはアマチュアだけど、そんじょそこらのプロよりは音楽のことをわかってるだろう>、と自分で思ってる人なのだな、というのはすぐ顔に出るので、すぐこちらにも伝わってしまう。

 そういうときに感じる変な違和感のようなものが必ずある。
 でも、毎回「はて、もちろんたしかにアマチュアの人でもぼくよりコードを見てすぐばーっと弾ける人とか、ぼくより機材に詳しい人とかもちろんいるわけなのだが、、。でも、なんで僕は毎回こんなに深く?????となってしまうのだろう」と長いこと思っていた。
 いどまれてももちろんいいはずなんだけど・・。でもなんでこんなに無力感におそわれるんだろう。
 という長年の疑問。

 しかし、ついさっき、あぁそういうのに似てるんだな、といういいたとえを思いついた。

 何に似ているか。説明してみようと思う。

 ぼくは、埼玉のある町で生まれたのだが、生まれたときから大学に入るまではずっとその町に住んでいた。つまり17、8年くらいか。いまではその駅前はかなり大きなビルとかができてしまったりして人も増えたけど、子供のころはその駅前のあたりをぼくは鼻を垂らしながら自転車で走り周っていた。こどものころは道路だけじゃなくて、近所の家の塀の上とか、屋根の上とかはだいたい歩いて回った。どこのうちの庭のうらから、どこの家の屋根をつたっていったら、どこに出るかとかも全部実験していた。線路を走って渡る危険な遊びもした。

 その後、その町で初恋もしたし、なんどもふられた。いろんなけんかもした。親とも兄弟とも友達ともケンカをした。いろんなことでなんども泣いたし叫んだし、ひとりでとぼとぼ歩いたりもした。
 もちろん楽しいこともたくさんあったし、町がだんだん変わっていくのもなんとなく感じていた。そうやって僕は大人になった。

 たとえば、そんな僕のところに、かなりその町について興味をもってたくさんのことを調べてきた人(もしくは、ちょこちょこ旅行に訪れる人)が、ぼくを「プロのツーリストとか観光案内の人」か何かと勘違いして、張り合ってきたらどうだろう?

 「この駅前には、〇〇っていうすごいおいしいケーキ屋があって、〇〇っていう人が創業なんすよ?(俺より知ってますか?)」とか
「この町で、こういうバスに乗ると、こういうとこに行けるんですよ(そういう知識もってますか?)」とか聞かれたら、ぼくはきっときょとんとしてしまうだろう。


 いや、正直そういうことあまり知らない(あるいは知ってる)けど、だから何???


 あるいは、「この町に住んでるんだったら、ぱぱっと駅までいけちゃったりするんすよね。やってみてくれませんか?」とか言われたら、「なんで毎日やってることをやってみせなきゃいけないの?」って思うだろう。


 そういうのにすごくよく似ているな、と思った。
 プロのミュージシャンに挑もうとするアマチュアの人にとっては、その町の「住人」と「その町の観光案内のプロの人」の区別がついてないくらい、なにか大きな勘違いをしている気がする。

 あぁ、そういうところが大事と思ってるのか、、ということはわかるのだが、答えることができない。あまりに視野が狭すぎて。そこじゃない、ということを教えてあげたいが、そういう人は勝つことばかり考えてるのでこちらが伝えるのもすごく難しくなってしまう。はぁ、たしかにあなたのそこはすごいですね、というしかない。


 こう考えてくると、やっぱりこの文章で僕がつかっている「プロ」「アマ」っていうのはお金をとってるかどうかではないのだな、と思う。(普通の言葉の使い方とは違うことを書いているのかもしれないと思った。)
 まわりのミュージシャンを一人一人考えても、ずっとバイトしてようが、ぼくが絶対「アマチュア」とは思ってない人が、たくさんいる。
 しかしそうやって挑んでくる人は、確実に「アマチュア」だ。

 ぼくの大親友に、ずーーーっと他の仕事をしながら50年近く、自分の音楽を作ってるやつがいる。テクノとかアンビエントとか。
 彼は録音も大好きだ。彼はぼくが学生のときから町で会うと、ヘッドフォンをかけながらマイクを持って町の音を録音して歩いてたりしてた。それが日常なのだ。
 曲を作っては、それをためておいて、何ヶ月もたってからそれを聞く、そして少し直す。そしてまた何ヶ月もおいておく。ということを何十年も続けている。一人で熟成酒をずっと作り続けている杜氏の人みたいなものだ。
 彼は恐ろしく耳がいい。ある意味では僕より耳がずっといい。
 耳の良さもいろいろな角度があるから、ぼくはぜんぜんそれを素直に認めることができる。
 そして、彼はずっと他の仕事を続けることで自分の音楽を守ってきている気さえする。そういう意味では仕事の仕方という意味でも、ずっと音楽をやってきている自分に対する戒めとして彼の生き方は僕にとって大事な教師にもなっている。
 彼は僕にとっては完全に(どちらかと聞かれたら)「音楽のプロ」である。アマチュアとはみじんも思わない。(でもある意味聞かれなかったら、プロとかアマとかいうのも失礼な気さえする)。やはり尺度はお金ではない。
 そして、もちろん、彼は、絶対に「挑むようなこと」は言わない。いうわけはない。彼は音楽の村の住人だから。何が大事かよくわかっているのだ。

 もちろん、いろんな部分的なテクニックというものは音楽にもある。なんにでもあるだろう。
 そして、プロと言われる人でもそれをもちろん全部知っているわけではない。
 だからどこか一箇所でプロに勝つことはたぶん場合によってはそれほど大変ではないのかもしれない。
 しかし、一方で、むしろ、「どれだけ自分が知っていないか」を知っているのがそのジャンルの住人だ。と僕は思う。そしておそらくそれをコンプレックスには思っていない、ということだ。だってそこに住んでるんだから。
 その町にずっと住んでいれば、自分が知らないその町のことを知っている人の存在がまわりにずっとあるわけだ。
 つまり、町の何かについて自分が知らないという事実、あるいは、それについて「おそらくこのくらい知らない」という知識(というかそれを知るのは「知識」よりもっと深い「感覚」な気がする)こそがちゃんとついていくわけだ。
 俺は「ケーキ屋の由来は知らん」しかしちゃんとここに住んでいる。

 全部を知らなくとも、その町にずっと住んでいる、ということにもっと別の深い意味があるわけだ。
 そこのケーキ屋の由来など知らなくても、そこのケーキ屋の前を何千回と通っていればそこの入り口の風情や、そのケーキ屋さんの佇まい、そういったことを肌で感じている。それを「毎日」感じているのだ。
 たとえば、そのケーキ屋さんについての詳しい情報を話す人がぜったい周りに何人かはいただろう。でもあえて「それを自分は覚えなかった」という貴重な経験をしてきているともいえる。何をいってるか伝わるだろうか。

 その町に関する知識や技術を競おうとする、という時点で、ちょっとその町の住人ではないことがばれてしまう、ということが世の中にはあるのだな、と今日あらためて思ったのだ。
 たとえば、もし機材に詳しくなくても、プロのミュージシャンは「自分がどのくらい機材に詳しくないか」を逆によく知っている、と思うのだ。そして知らなくても「その先にどれくらいのことがあるか」はなんとなくわかっている。肌で。
 そして、「知っている」ことの量よりも、
「いかにその人が自然に、自分がその分野について<何を知らないかを知っているか>」
ということのほうがよっぽど、その人がその物事に通じているかどうかを図る尺度になる。ということなのではないかと思う。

 そういう意味では、どんなに有名なミュージシャンでも「プロたるものは、、」と後輩に「知ってるかのように」説教を垂れるタイプのミュージシャンを僕は基本的にあまり信用できない。売れてたりはするのかもしれないが、この町に長くは住んでないのだな、と単純に思う。そして、ほんとにこの人の音はいいんだろうか?と疑ってかかる。そして、そういう疑いはあまりはずれたことがない。
 もちろん「音楽業界」における常識みたいなのもあるんだろうが、そういうのが全面に出ちゃっていると、なぜだか逆にアマチュアっぽく見えてしまったりするし、それがまた音にも出てしまうものだ。だって町の観光ガイドに乗ってるのは、その町の一部分である、というかほとんどメインのことではない。観光ガイドにもいろいろあるように、「業界」っていうのも世界とか地域でいろいろいくらでもいろいろある。そこにはそれぞれ楽しさはあるかもしれないが、別にそれだけのことだ。それぞれがうるさくいろいろ「言っている」だけだ。

 そんなの読んでも「町のことなんか全部わからない」とわかっているのがその町の住人だ。

 <いや、ぼくはそのケーキ屋さんについて何も知りませんよ。>
 そう言える人のほうが、はるかにその町の住人なのだ。

 <自分はプロだかアマだかよくわかりません。>
 そういう人の演奏のほうがよほどすごかったりする。

 ずっと「そこで」暮らしている、ということをなめてかかると、単純にちょっと滑稽なことになってしまうのだと思う。
 猫や花にケンカを売っているような風景になる。
 はて?なにをそんなにいきりたっているのやら。と。

 あなたが他のことをしている時間、その人たちは、ただ「そこに」ずっといるのだ。 その町の知識について、「競おうとしている」「いどもうとしている」その時点で、その人はその町の住人ではない。
 知識はどこまでいっても「存在」に勝つことはできない。
「存在」は勝負をしようとしてはいないからだ。

 なめている方の人が、心の中の勝負をいっしょうけんめいひとりで世界に向かって叫んでいるようなことになってしまう。
 「私は心の中でこんなに競争をしています!!」
 猫も花もそれには答えようがない。
 (私はここにこうしているだけです。)とさえも、言わないだろう。
 いうことができない。生活というのはある意味そのくらいなんというか普通のことだ。

 それをすることが普通の生活になっている、そういう人が、まぁ「プロ」なのかな、と思う。静けさがない人はまだただあこがれている人だ。悪口ではなくて、だれでも生活は地味なものなのだ。だからそれはしかたのないことだ。それをしてきた人はしてきた人だ。
 そういう意味では、そこに「ない」競争にあこがれていられることの方が、ある意味「遠くが」とてもキラキラ輝いて見えていられるからすてきなのかもなぁ、、と皮肉半分で思ってしまうこともある。
 でも笑っていられる問題でもない。「競争」のイメージを作りだすのはたいてい外側のほんとにはその町には住んでいない人間だ。ほんとはどこでも生活に根ざしたものに本質的な競争はない。それは教育現場でもほんとうにそうだと思う。競争を教えこむことは本人の能力を閉ざすもっとも有効な手段だ。
 競争を教え込むことで、かえって実際には「ない」競争を心の中につくりだし、その瞬間に自分から妄想に負けにいくことになる。悲しい話だ。
 こういうことをいうと、いや実際に競争はある!という人もいるが、実際にある競争については、ことさらに教える必要などないのだ。それは体験すべきことであって教えるべきことではない。しかしこういう理屈がわからない人もたくさんいる。
 だから、あなたはもっとすごい場所で活躍できるのに、とか、もっとすごいところにいっていいのに、、というようなことを言われるときにもよくとまどってしまうし、ある意味本能的に少し警戒する。あきらかにただ無邪気にほめてくれている場合もあるが、そうでない場合も多々あるからだ。

 やっぱりその町を愛している人(というと大げさかもしれない)、その町で暮らしている人、というのはぜったいにその町の一部に関する知識を競争の手段にしたりはしないものだ(おもしろがって遊ぶことはあるかもしれないが)。
 人に何かで挑もうとする人は、それをほんとうには愛していないのだな、と思う。
 その人にとっての一部分のことでしかないからこそそういう「手段」にできるのだ。

 住むこと、生活すること、は、戦うことではないのだ。

 2017.8.9.



 

 

カイロ

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ぼくは今年で50歳になったのだが、50歳といえばそこそこの年で昔なら人生50年といったくらいだから、もうそこそこ長いこと生きさせてもらってることになるわけだけど、こどものころからずっと不思議なことがある。

それは、とうとうと自分の考えをしゃべる人、というのが世の中には多いということだ。

ぼくとしては、「考え」なんてものは、寒くてしょうがないからその人が自分でポケットに忍ばせてる「ホッカイロ」(これは商品名だな、、)みたいなもんで、ああいう市販品とは違って、赤いのや青いのやさらには複雑なのや多種多様で、基本的には他人に見せたところで、しょうがないものなんじゃないかな、と思うんだけど、どうもその中身を人に説明したくてしょうがない人というのが案外多いんだなぁ、ということだ。

カイロと同じで、寒くてしょうないから「考え」で自分をあっためる。それはまぁある意味「しょうがないこと」ではあっても、なくて平気ならそのほうがより健康なんじゃないか、とさえ思う。

それは子供のころからまわりをぼーってみてていつも思ってたことで、どうしてこんなに「考え」をみんなしゃべるんだろう、そしてそれでケンカしたりするんだろう、と感じていた。
だいたいにおいて、カイロがその人をあっためてるうちはいいが、カイロの見せ合いになったりするとだいたいろくなことなんかない。
 最初はなんだか楽しそうに見せあってるのに、そのうち、どっちのカイロがいいかみたいな話になったり、必ずややこしくなる。
 だってもともとがそれぞれのためにあるものだから!誰がもってるのも他の人とはぜんぶ違うカイロなのになぁ。


なんだかこどものころからずっーっといろんなタイプのそういう話をいろんなところで聞いてきた気がして最近さすがに長期的疲れが出てきた気がする。いや、たのしい話、あったかい話ならまだいいんだけどね。

わりと僕はぼーっとしてるから聞いてるように見えるんだろうなぁ、だからよくそういう目に合うのかなぁと思う。

カイロを入れてるとね、、僕はあったかいんですよ。。
という話ならもちろん聞けるし、
すみません、私のカイロの中身について話聞いてくれますか?

ってちゃんと言ってくれるなら、もちろん楽しく聞くことだってできる。

カイロについて、あなたが感じてること、なら聞いてておもしろい。
こういうカイロ(考え)が私をどうしてるのか(あたためてる、悲しませてる、つらがらせてる)、っていう話なら共感できる。
それは人間の感じ方の話だから。そして、それが「あなたのカイロの話にしかすぎない」とあなたが思ってくれてるなら聞くことができる。

でも、たいてい、自分のカイロ(考え)についてとうとうと喋る人は、まずだいたいそのカイロが自分のポケットにあることが自分にとってもあったかくすらなくて、むしろカイロの成分についていらだっていたり、そのカイロの構造のことで頭がいっぱいになってたりして、つらくなってるものだから、いきなりカイロの成分の内容について他人に話をはじめちゃう。
 大丈夫かなぁ。
 しかももっともまずいケースは、たぶん頭のどこかで「みんながきっと同じカイロを使ってる」、もしくは「使うべきだ」と思ってることが多いようにも見える。
 だから、話せばわかる・・と。
 いやいや、それはあなた固有のカイロです。

 それをつけてると体がかゆくなっちゃうカイロとか、どんどんポケットの中で増殖しちゃって始末におえないカイロとか、そんなもんさっさと捨てちゃえばいいのにもかかわらず、それを後生大事にポケットに忍ばせてるのは自分自身なのに、それを誰かにあっていきなり

「カイロのこの成分AはBなんですよ!!」
と急に一生懸命話しても
聞いた方は、どっちかというと、その成分や構造のことなんかより、
ただ、
「ひぃー、そんな汚いものいきなり出さないでー」

というのが、ざっくりした正直な感じ方だ。
(誰でもきっとそうだと思う。)

うーん、困ったな、えーと、、、僕はカイロについてじゃなくて、あなた自身の今日の気持ちや感じを知りたくて話してるつもりなんだけど、またカイロの話???となってしまって、ほんとうに困ってしまう。

さらに、困るのは、話をそらそうとして
いや、、あのさ、、そういう話じゃなくてさ。もっとさ、、、

そうだ、最近どうしてるの?元気なの?

とか言って話をかえようとしても、
「なんで、私の(僕の)カイロの話を否定するのだ!」
となってしまう。

 おまえのカイロおれ、もってないし!!

 なんでそんなことがわかんないんだろう?

 
 いや、ほんと、古いカイロ、捨てましょう。
 いい加減。なくても結構平気ですよ。なにも変わらない。ただただすっきりします。軽くなるし。


 でもまだ世界がひとつのカイロで結ばれるべきと思ってるへんな人たちがまだいっぱいいて、しかもそういう人たちが「高学歴」とか呼ばれてる人たちの中にとっても多い気がする。
とてもへんだ。

 ふつうの人は、高学歴だろうが低学歴だろうが関係なく、誰しも基本的に、「自分の体と心」で毎日を生きている。カイロはカイロ、と知っている。
 カイロはたよる必要があるときに「自分のポケットにいれて」使うものであって、それで自分をがんじがらめにしたり、さらには人におしつけたりして使うものじゃない。あたりまえじゃないか。カイロなんだから。


 カイロにとらわれちゃったのはとてもかわいそうだし、大変だな、と同情する。ある意味深刻だ。
 でもカイロはたいしたもんじゃない、って気づいてくれないと、話もできない。ほんとに、気づいてほしい。
 
 こっちの言い分として、ひとことでいうと
 カイロじゃなくて、あんたの「感じてる」ことを正直に話せよ(まずは、気づけよ)。じゃなきゃ、こっちは聞いててもなんにもわかんねーよ!!
 ってことやなぁー。
 ほんとにだいたい何言ってるかわからないんだよな。
 その人だけのカイロの成分の話だから宙に浮いてて他の人からはチンプンカンプンに聞こえてる、ってことがあんまりわかってない場合が多いように思う。
 力説してるときはだいたい要注意だよなぁ。

 そして、カイロばかりにとらわれると、気づかないところで、基本的なこと(約束を守るとか、あいさつするとか、相手の存在を感じるとか)に鈍感になっていってどうしても周りから浮いて行ってしまう。

 気をつけないと!
 心配だ。ほんとに!
 悪口をいってるのでなくて本当に心配なのです。はい。

 カイロの話は楽しく!が原則だよな。
 はやくそういうのがあたりまえの世の中にならないかなぁ。

 まぁかなりだんだんそうなってきてるし、確実にこれからもそうはなってくだろうけど、、、

 しかし、この文章は、カイロの会社から怒られそうだな・・・
 実際のカイロ自体には僕は毎冬とても重宝しています。寒がりなもんで、、、

おりる

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おりる

〜ともだちへのエール〜

 

とにかく戦わない

戦いからおりる

そのことだけがあなたを強くし

幸せへと導く

 

それ以外のことは

すべて

言葉が作り出したまやかし

誰かが作り出したのですらない

「言葉」がつくりだしたただのまやかし

 

それがどんなに複雑に降り積もり

網目のようになってるように見えていても

ほんの深いひと呼吸

脱力そして

謙虚に小さくなる

そのひとときの間に

すべてモヤのように消すことができる

 

はじめからそこにありはしないのだから

 

あなたはそのときそのとき

「あなたの感じる気持ち」以上のものではないのだ

残念ながら

 

それが寂しさや悲しさであっても

それ以上のものは最初からどこにもない

 

あなたは常に

あなたの悩みほど大きくない

 

 決別の方法は

たったひとつ

(そしてゆるやかに可能になる)

あなた自身の全ての感情を

たったいま

そのまますべて感じること

少しずつでも

 

それ以外のことは存在すらしないのだ

 

どうか気づいて欲しい

まわりの音に、あなたの呼吸に耳をすませば

それはいつも変わらずそこにある

 

あなたはとてもとても小さい

とても、とても

そして

とても貴重だ

 

でも誰にもどうしようもない

あなたが気づかない限りは

 

戦わないこと

おりること

なにも信じないこと

 

あなたは小さい

とても小さい

そしてその大きさ以上の幸せは

どこにもないのだ

 

つまり

その小さいあなたが

そっくりそのまま

望みうる最も大きい幸せなのだ

 

僕にできる限りの愛を込めて。

 

20170801

 

 

人がだんごになってる会社は終わってる

 フリーランスで仕事をしてる人の間では絶対ない不可思議なことが、ある種の「会社」という組織の中ではおこるらしい。

 今までの経験で、人が「だんご」になってる会社やお店とは仕事してもだいたいろくなことがない。
 つまり、ひとりひとりが独立して、外部の人とちゃんとリスペクトをもって話ができるかどうか、ということだ。

 たとえば、部長A、部下B、部下C の3人ぐらいと僕がミーティングがしたとする。
 ありがちなのが、なにかを言った部下のどちらかに対して

部長Aが
「おいおい、だめだよ、そんなこと言ったら。こちらの方はそういうんじゃないんだから。」
 と僕の目の前で、部下の人の話し方を訂正する。おまえそれなんのパフォーマンスだ?
 もしくは、
部長Aが
「いやいや、そこは僕が説明します。」
と部下の話を、途中でさえぎる。
そこは僕が説明してもよいですか?と部下に聞かないのか?

3人の方それぞれと僕は会いに来てるのだが、そういう風な空気を作らせまい、とする力が働く組織がある、ということだ。
 自分たちの組織を謙遜して、僕のことをたてようとしてくれてる感じだったりすることもあるが、だいたいそういう組織はだめな場合が多いなぁ、と思う。

たいしたことじゃないようだけど、そういう会社はあとでだいたい仕事をはじめてから案の定、気持ちよくことが進まない。ひずみはすべての場所に現れる。だいたいにおいて意外と責任をとらない会社の場合が多い。「個人として」でなく、みんなでひとつの「だんご」だからいくらでも責任を回しあえるのだ。

組織だけじゃなくて、家族とかでも、こどもがなにか言ったときに親が「おまえはだまってなさい」みたいに言って僕と話はじめるような家族はだいたいどこかで問題があったりするように思う。

ひとは基本的にはひとりひとりだ。それを忘れてしまっている組織は、どこかにそのひずみが出ているから、一緒に仕事をするこちらにもそのうちそのひずみがやってくることになる。

 似たような例で僕が大嫌いなのは、たとえば、僕がカウンターでラーメンを食べてるのに、ほぼ目の前で、店長が店員を頭ごなしに(ある時は、こっちに対する演技かな?と思うくらいに)怒ってるような店。それがこっちに対するサービスのつもりか?と思うこともある。
 飯を食ってる目の前で誰かを怒鳴ってる人がいることの方がよっぽどいやだよ、と思う。その部下がどんな失敗をしたにせよ。
 店長、あんたが一番問題だ、と思ったことがなんどもある。チェーン店系に多い気がする。

 あとは、店にはいったとたんに、みんなが一斉にこっち向いて「いらっしゃいませ!」と言うのだが、そこに「すぐ言わなきゃ!」という感じがにじみ出ている店。それも結局同じような人間関係のひずみを外部の人に味あわせているだけになってしまっていたりする。あれもいやだなぁ。

 最近気づいた別のことだが、ちょっと「いい会社」「いいお店」とされている(本人たちが勝手にそう思っている)ところに裏口からなにかの用で行った時に、意外と、挨拶をだれもしてこないときがあるなぁ、ということだ。
 つまり、人として、自分が誰かに会ったら挨拶をしてるのではなく、「会社にとって誰だかわかるちゃんとした人、もしくはお客さんだけには挨拶をしなくてはいけない」といういやいやの習慣がついている、ということだ。
 みんなして、「この人だれだろう?」って目で見られたりしたときによく思うのは、
「誰かが、挨拶して、誰だか聞けばいいじゃん、、」っていうことだ(笑)
 こちらで挨拶して「こうこうこういう用事できた○○ですー」と言いながら入ったりするけど、それでもなんの挨拶もかえってこなかったりする。人間として大丈夫だろうか?

 こっちにとっては、その会社が「いい」会社と言われてるか「一流」と言われてるかどうかなんてなんの関心もないことで、ただ単に、ここの人たちの空気が悪いな、とか、あぁ人としてゆがんじゃったんだな、と思うだけだ。
 いっしょに仕事したくないな。と思う。
 そしてそういう会社や店がはやっていったのをあまり見たことがない。まぁでもでかいところは続いちゃっりはするんだろうけど。
 でも悪い空気は悪い空気であって、いくら続いてもなんの意味もない。

 いつもとても不思議な気持ちになる。

 まわりのフリーランスの人たちの間では、だれかがだれかになにかを強要したり、制したり、あるいは、グループ以外の新しく入ってきた人を怪訝な顔でみたり、そんなことはほぼありえない。あったとしたらよっぽどのなにか変な特殊な事態だ。
 みんなが、どうしたんだろう?なにかあったのかな?この人は、、
 と、「その人」のことを心配するだけことになる。体調が悪いのかな?とか。

 しかしそれが普通になってしまってる組織というのがけっこういろんなところがあるのだな、と思うと、あらためて絶対に関わりたくないな、と思う。
 関わる人がひとりでも減るべきだ、と真剣に思う。
 そんなとこで働いていたら病気になるし、そんなところと仕事しても絶対に気持ちよくは仕事ができない。いくらお金になろうとも。
 やめた方がよい。





 

強さ、と思う部分。良さ、と思う部分。

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人は、

これが、強さだ、と思う部分によって

もしくは

これが、良さだ、と思う部分によって

自分を少しずつ滅ぼしていく。

歳をとっていくとそれが顕著だ。
その人にとって、これが「強さ」の構えだ、と思ってる部分によって
その「構え」自体が原因で、本人の中で何かが少しずつほころびていく。


最近そのことがすごくよく見えるようになった。

 

結局、強さ、も、良さ、も頭の中の言葉なのだ。
それに自分の体がついていかなくなることで、人は困難におちいる。
周りに言い続けてきた、「強さ」や「良さ」をそう簡単には引っ込められないからだ。


しかし、本当にすごいなぁ、と思う人は、皆、そこから自由である。

僕の周りの年配の人は、普通に比べたら、本当に自由なものの見方ができる人が多いなぁ、とよく思う。
ただ、それだけに、「あぁ、ここだけは、この人は、その<強さ>から逃れられないのか」とか見えてきてしまったりする。
そして、そういう時に一番ドキッとする。
自分のことをふりかえるからだ。
自分の中にも、きっとそういうところがある。
「ここになると、どうしても頑張ってしまうところ」
それこそが、僕にとっての、病気の原因、とでもいう部分だ。
そこに気付けるかどうか。


「強さ」から自由な人はとても少ないが

「良さ」から自由な人はもっと少ない。

そういう意味では、
一見「変な」人と思われている人が

実はとてつもなく自由であり、結果としては本人が意識しないところで

すごく強かったり、すごく良かったりする。
世の中そんなものだ。

言葉で相手を負かそうとしている人など、強さという意味で見たとしても

ある意味、論外に近い。
どちらかというと、すでに病気になってしまっている、とも言える。

これは人生の話でもあるし、演奏の話でもある。

いずれにせよ、世の中は結構、見かけと本質が逆になっている。
神様というものがいたとしたら
なんでこんなにトリッキーに「人間」というものを作ったのだろうか。

しかし、それは神様のせいではなく、言葉というものを人間が間違って使い始めたからだという話もあったりする。

ともかく、言葉で話されていることなんて、本質のほんの薄皮ぐらいのことでしかないのではないか、とよく思う。

自分のために言葉を使うのをやめよう。

それこそが最大の罠だ。

「頭がお花畑」と言う批判語のダメなところ

頭がお花畑と言う批判は戦うことで最初から負けているなぁとよく思う。人は死ぬ。でも生きている間はそれなりに愛し合い協力できる。それは小さな謙虚な現実。一見リアルなことを声高に言っているような人の方が死を恐れてどでかいことにすがっている。怖がらず、今日も静かに強く、普通の愛を語ろう。

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