自慢し排他する弱さ
最近どうも「非国民」だとかなんだとかそういう言葉がふつうにちらちらネットとかで見かけられるようになった。
そんなことをいうのがもっとも情けないことだということを知らないんだろうか。
でもそんなにそれが多くの人とのセリフとは思えない。
そういう風に持って行こうとしている人はいるかもしれない。
本当に強いものは、他のものと共存できるのだ。
すでに私たちは同時に存在している。
本当に強いものは、「どううまくやっていくか」考えるものだ。
思想の上で、他人を排他するのは、現実逃避だ。
それはもうすでにワールドスタンダードだ。当たり前のこと。
仲間を選び、同じ考えのものだけでまとめようとするのは、弱く、「溺れるもの」だ。
怖いのだ。共存していること自体が怖くてしょうがない。
怖くてしょうがないから排他する。そして仲間だけで集おうとする。
その過程自体が、もう現実から逃げている。
現実と逃げ続けて、自分以外のものを言論の上で殺し続けても、いつか気づくのは、
「自分が逃げていた」という事実以外のものではない。
最終的に出会うのは思想ではないのだ。
現実だ。生物としての。
自分は弱かった。他の存在を認められなかった。
「排除する」ということ自体がすでに「溺れている」ことだ。
あきらめること、と、チェックシート
過去の失敗や、後悔を、取り戻そうと
現在をかんばる。
それはもっとも破壊的なこと。
実は緩慢な「自殺」なんじゃないかと思う。
一見、とても頑張っているので、
献身的に見える。
でも実は現在の「愛情」に基づいていない。
永遠に埋まることのない喪失感に基づいている「頑張り」は
最終的にすべての周りの人をも飲み込んで本人も最終的には苦しみの中に終わる。
本人もそのことを望んでいるようにさえ見える。
なぜなんだろうか。
たぶん・・
過去は本当にもう今は「ない」から。
それがどこかでは本当にわかっている。
しかし認めたくない。
起こってしまったことをどうしても認めたくない。
だからなんとか取り返そうと未来に向けて頑張る。
しかし過ぎた時間は、「巻き戻せない」のですらなく
「今は本当に、もう<ない>のだ」
跡形もなく。
それをどこかでやっぱり立ち止まって認めないと
本人も、そして周りの誰もが幸せになれない。
いまある愛情に気がつかないからだ。
過去だけではなく、ある意味本当は何も「とりかえす」ことはできない。
そしてまたこれからを何かを獲得することもできない。
ただ、一瞬、一瞬を大事に生きていくしかできないのだ。
それがちゃんとわかって必要な涙をちゃんと流すことができないと
人は「問題意識」という隠れみののもと
「私はまだちゃんと頑張っている」という自己肯定のために
周りも巻き込んで自殺していく。
それは肉体のことだけでない。
精神が「本当に幸せにならない」
そういう道だ。
地獄への道は、「善意」という名の敷石で埋め尽くされている。
という言葉がある。
大げさな善意だったり、目標だったり、そういうものはまず疑ってかかる必要がある。
それ以前に現在と周りの人たちがちゃんと見えているか?と。
Too Much なものにはやはり隠れた理由がある、と思う。
最も無自覚で、破壊的な「攻撃」。
それは本人が(完全には)気づいていないことから起こる。
でも少しはわかっている。たぶん。
本当に「現実を認める」ということについては人は弱い。
弱い「から」攻撃する、のですらない。
弱さから何かにしがみつくこと。それが永遠に埋まらないブラックボックスを作り出す。それがすべての人を巻き込んでいく「ネガティブな穴」になる。
それは一見とてもポジティブに見えるのだ。
しかしその穴は埋まらない。
なぜならそれは本人が作り出した、現在ではないところに向けた「穴」だからだ。
埋まるわけはない。
そして、本人がその穴自体になることほど辛いことはない。
だからこそ、まずはゆっくり止まって見渡すこと、ゆっくり休むこと
が常に必要だ。
のんびりしなさい
と子供に教える親が増えて欲しい。本当に。
そしてもちろんのこと、大人がまずは休まないといけない。
それは体のことだけではない。
落ち着いて見渡して、ある意味「あきらめること」もとても大事だ。
「頑張る」ということには恐ろしいほどの「嘘」が含まれていることが多い。
本当に何も求めない「すがすがしい頑張り」というのは、
すでに「頑張り」ですらない。
ただ「元気である」ということなら誰をも傷つけたり、無自覚に軽んじたりすることなどないだろう。
なぜなら、「ちゃんと見えているから」だ。
何かのために元気なわけではない。
何かのために「元気」というのは危ない。
現在、いま本当に周りにある「愛情」に気がつかないまま
本当に大事なものを損なっていく。
攻撃的な論争に明け暮れている人は本当に気をつけたほうがよい、
と特に最近よく思う。
それがどんな立派な理屈や大きな成果を伴っていようとも。
周り中が、そして本人が幸せにならないのではなんの意味もない。
何かを達成したとしても、本人の中のチェックシートに「達成した」というチェックがつく、それだけのことになってしまう。それを誰が喜ぶだろうか?
もっとも過酷な現実は、そういうチェックシートは「永遠に埋まることはない」と決まっている。そこに大きなトリックがある。実は埋まることはないことで機能している。
未来がやってきた時にはそれが現在なのだ。
常に未来を見ている人は、何も見ていない人だ。
オムレツ。ボーカルと伴奏者。ゲームと砂場。そして星。
(写真は今は亡き、スピーカーにのぼって外をみる夢吉)
ここ何年か(おそらく10年ぐらいだろうか)もしくは、ある意味この仕事をはじめてからずっと、うまく言えないのだが、「それをどう考えたらいいのか」迷っていることがある。ちょっと文章にしてみたい。
(と思って書いてみたら、最終的には意外とセンチメンタルになってしまった。)
それは、ボーカルやリード楽器の人が、ピアノの伴奏のアレンジや弾き方について指示するときの指示の仕方、およびそれに対する伴奏者の答え方、について、だ。
もちろん、ボーカル(もしくはメロディー楽器)の人のリーダーバンドだったり、ボーカル(もしくはメロディー楽器、以下略)の人のための仕事の場合は特に、そのボーカルの人が歌いやすさや満足が大事なのは言うまでもない。
そして、特に仕事ではなくても、当然、伴奏者はボーカルの人が気持ちよく歌えるように弾くのが楽しくて伴奏をしている。
音楽をやっている人意外にはわかりにくいことかもしれないが、やはりボーカルの人とその伴奏をする自分のような(ピアノとかギターとか)伴奏者は、微妙に音楽的役割も違うし、ステージでの立ち位置も違う。
もちろんピアノやギターがリード楽器になることもある。楽器の場合、歌と伴奏のどちらの役割を果たすこともできる。
ボーカルの人がいる歌もののときにピアノは伴奏楽器としての役割を果たすことが多い。
伴奏者はボーカルの人が満足するように演奏する、というのは(それが楽しくてやることだから)ある意味あたりまえのことではあるのだが、
それはわかっていながら、たまに「???」というなにか思考がとまってしまう感じの違和感というか悲しさ??のようなものをおぼえることがある。
たとえば
「あ、そこのところもうちょっとこういう風に弾いてみて。そうそう。その感じ。その感じでここからここまで弾いてみてくれる。そうそう!それ。」
みたいな言い方をされる場合。
これはぜんぜん珍しいことではなくて、むしろ普通そう、っていうくらい一般的な言われ方だったりもする。
でもなんかそのたびに僕は???と思ったりしてきた。
もちろん何を言われてもまったく平気!なんでも言われたとおりにやっちゃうよ!!というタイプのミュージシャンの方もいらっしゃる。ぼく自身もどちらかというとそういうタイプではないかと思ってるけど、僕なんかよりずっとなんでも答えられてなんでも聞いてあげれる人もいて、その対応力や柔軟さに感動したりすることもある。
でもそういう人であっても、上に書いたような感じで言われてるのを横で見ていると、やっぱりなんか見てるこっちも「???」と思ってしまったりする。
この文章は、ある意味ボーカルの人やメロディー楽器の人に読んでいただくと、すごく「クレーム」みたいに読める文章かもしれない。しかしこれはクレームではなく、なんとなく一般化して言葉にしてみたい、という(とても人間らしい)単なる欲望だ。じゃないと自分自身がなににとまどってるのかがわからないのだ。(そういうことが自分には多い。)
ずーっと、たぶん10年どこじゃない20年ぐらい、疑問に思ってきたことで、しかも伴奏をしている人はみんなそういう違和感をどこかでかかえながらやっている経験があるのではないか、と思ったりしてきた。
でももしかしたら、そんなところでとまどうのは僕だけかもしれない。
というわけで、「一般的な」ひとつの単なる「おはなし」として書いてみたい。
ちょっと今日ふと、あれ、こういうことかな、と思ったことがあったので。
オムレツの話。
たとえばカップルのどちらかがどちらかのために料理を作っている。いろいろ想像しながら。
あぁ、あの人は卵が好きだから、今日は卵料理にしよう。今日の顔色は、、うん、オムレツにしてみようか。。喜ぶかな。
お皿はこれにしたら色が映えるな。。。
またそこにはもちろん相手のためだけでなく、自分の料理技術に関するいろんな実験ももちろん含まれる。
「あ、最近覚えたあの本にのってたオムレツのおいしい作り方をためしてみよう」とか。
まぁ、そうやっていろいろ工夫して、作っていく。卵を混ぜるときにちょっとだけお塩を入れて、、生クリームは普段使わないけど、ちょっとだけ今日は入れよう。そして、フライパンをよくあっためて油をしく。卵を入れて、、と。
すぐ片側によせて、、固まらないうちに・・・
ふと気づくと当の相手が、横に立っている。
「あのさ、その君のフライパンの軽いゆすり方が好きだなぁ」
「あ、ほんと?それはうれしいな」
「それをもっとふってみてくれる?」
??ふるの?と思いながら、言われた通りに振ってみせる。
「あぁ、そうそう!もっとふってみて」
いや、、、オムレツが・・
「いい感じ。で、はしでかき回してみて」
あれ、かき回す?
あ、まぁ寄せる前に軽くかき回すやり方もあるけど、、
「いや、もっともっと。いい、そうそう!」そうそう。もっと横にふって。はい!そこで塩入れて。」
塩さっき入れたけど!!
「そうそう。すごくいい。もっとかき回して!できたできた!」
・・・・まぁできたけど、これスクランブルエッグだよね。。
みたいな感じかなぁ。
まぁ、ボーカルの人と演奏してるときは、いっしょに料理はじめてるようなものだからちょっと違うっちゃ違うのだけど。でも言葉でいきなり演奏について言われる、、という場面から浮かび上がる物語はこんな感じかな。
いま書いてておもったが、音楽、特に演奏でのコラボレーションは、ある意味セックスみたいなもんだなぁ。まぁ、月並みによく言われる比喩だけど。
うまく相手をのせることも大事なのは言うまでもない。
しかし、言葉というのはどういう場面でも難しいものだ、と思う。
音楽で言うと、演奏(実際の行動)で乗せてほしい、伝えてほしい、というのも常にあったりする。
なにかをしてほしいのなら、演奏で伝えてから言葉にしてほしい。そこが料理とは少し違うのだろうか、、、いや、ほんとにすごい料理の人はやっぱりそうなんじゃないかと思う。
(マクロビオティックのほんとうに極めている人は、音の響き方とかにもすごく敏感だったりするらしい。
なにかをスプーンでかき回したあとに、入れ物のふちで「かん、かん」って叩いてスプーンについてるものを落とそうとしたら怒られたという話を聞いたことがある。
金属の響きについての話らしい。すごいなぁ。音楽とまったく同じ「波動」の話なんだと思う。)
「言葉でのせて違う方向に持っていく」というのはなかなかともするとなんだか変なことになる。のかもしれない。
言葉で伝えるなら、むしろ、「のせてくれる」より、
「その料理は今日は違うんです(こちらにとって)」
「その体位は今日は違うんです(こちらにとって)」
「そのアレンジは今日は違うんです(こちらにとって)」
とはっきり言われたほうが楽だったり、必要だったり、する場合がある気がする。
うまく言えないのだが、すべてをはっきりと言わない、というのは逆に変なことになったりする。
というようなことだろうか。違うかな。。
(想像すると)会社とかの仕事場でもそういうことって多いのではないかなぁ、と思う。
乗せ上手な上司、というのは一般的にはよい、とされるのかもしれないが、それが逆に暴力的になってしまうこともあるんじゃないだろうか。
命令したり、指図したりするのは(もちろん)よくないのはあたりまえだが(それは論外)
かといって、知らず知らずに「のせる」のでもなく、
「今日は、<僕が>オムレツが食べたい気分じゃないんだよね。だから作ってくれますか?」
ときちんと言えるかどうか。
料理をしている方も、言われたままにフライパンをふりはじめるのでなく
「えっと、<僕が>考えたのは、オムレツを作ることなんだけど、<あなたの>食べたいのは違う?』
ということを言えるかどうか。
なんかこういうことって、音楽以外でも、よく出てくることなんじゃないかなぁ、、と思ったりする。
そういうのを、はっきり言わないで「空気を読みあう」みたいのがよしとされている場合もあるみたいだけど、そういうのっていい音楽になるのかなぁ、、と考えこんでしまったりする。
ほんとの自然発生というのとも違う、なにか変な料理、みたいな。
そういう意味では、ある意味、「サポートミュージシャン」という立ち位置がはっきりしているバンドにいて、頼む方も「こういうふうにしていただけますか?」ときちんと頼む、という関係は、以外と関係性がわかりやすいから楽だしすっきりしているのかもしれないな。とも思う
いっしょにやってるのか、それともそうじゃないのかがはっきりしていない、というのはなかなか難しいものだったりもする。
昔、あるバンドで僕が「プロデューサー制」というアイデアを出して、それを試みたことがある。
曲ごとにプロデュースする人を決めてしまって、アレンジを全部その人に従うのだ。
これは料理でいう当番制みたいなもんで、一品一品、その品はその人の指示に全部従う、と決めてしまう。
指示する方も責任感が必要になってくるし、答える方もそうだ。
わりととてもうまくいった。
プロデュースする側としての自分、だれかのプロデュースに従って演奏する側としての自分、ふたつの自分が発見できたりもする。
ゲームのおもしろさ、というのはそのへんにあるのかな、と思う。
こどもとの音楽遊びでも、ゲームのルールがある程度あると、役割がはっきりするのでとても楽ではある。
しかし、自分がしているワークショップの中でも、どんな音楽遊びのゲームよりも、何も決めないで、偶発的に起こるのを楽しむ「音の砂場」というワークショップが僕は一番好きだったりもする。
なにもルールがない状態で、どちらが、何を望んでいるか、を気持ちよく伝えあう、というのはとても難しいことだ。
しかし往々にして、いい音を出すミュージシャンはそういう「気持ちよく伝え合う」すべを(その人なりに)確立していたり、心得ていたりするように思う。
そういう意味では自分もまだまだだなぁ。と思う。
年上のミュージシャンでそういうのが驚くほどスムーズな人もいたりする。
あるいは、なんでもだまってやってくれる人もいたりもする。
しかし、かといってなんでも受け入れてしまう、というのが魅力的、とも限らないなかったりもする。とまだまだ若造の自分は思ったりもする。
難しいものだ。
いろいろ書いてみた。
はたしてそんな感じだろうか(??)
実はまだよくわからないままに書いているところがある(笑)
こういうことは、もうしばらくしたら、あぁ、そういうことか、、とかもっとくっきりと見えてきそうなんだが。。まだわからない。
あぁ、しかし究極は、だまってうまくいくのが一番相性がよいってことかもなぁ。。笑
と思ってしまったりもするある意味弱い自分もいる。
それをいってしまうと、もともこうもないし、ちょっとせつなくもなる。
だまっててもうまくいく。
そういう相手がみつかる、というのはほんとうにまれなことだ。
星の数ほどある可能性の中の、数少ない出会いの中の、その中のまたほんとうに数少ない貴重な出会いなんだろうな。と思う。
しかもその人との演奏がある時期そうなったからといっても、いつまでもそうであるとは限らない。
恋愛にとてもよく似ている。
右でも左でもない。戦争でも平和でもない。もっとも大事なこと。ただ今、ふつうに、きちんと見る、ということ。選挙の日の朝に。
朝起きて思ったこと。
こんなことを書いてもしょうがないのかもしれないが書いてみようと思う。
どうも、
「冷静で知的な」戦争容認主義と、
「感情的で頭がお花畑な」平和主義者、
という、なんだかずいぶん単純な論議が多いなぁ、とずっと思っていた。
右か、左か、とか。だって、中国が、とか。でも中国だって、とか。
わりと単純なことを堂々と言い合っちゃう時点で、おいおい大丈夫だろうか?と思ってしまう。そういう風に見ている人は実は多いんじゃないかなと思う。
右とか、左とか、戦争とか、平和とか、
選挙に向けて、要は、全部「よい未来」をもとに論議している。まるでわかっているかのように。
そこで考えているかぎり、普通の人であればあるほど、なにも選べないのではないか。
だって、普通に堅実に暮らすことって、もっと予測のつかないことの連続に対応することだ。
そういう意味では、ほんとは普通の暮らしをしている人は、みんな、そういう「架空の未来」に関する論議がどれだけ<うそ>だらけか、なんとなく感じている。
健康で毎日生活することは、実は、すごくちゃんと疑っている、ということだ。
なのに、誰かを選ばなきゃいけないから、選べなくなる。
ぼくもそれで惑わされてしまったりしていた。
しかし、選挙の日の朝に、明確なひとつの考えというか
「事実」にあらためて気づく。
身も蓋もないようだが、
実際のところ、未来はわからない。どうなるか。
未来を選べる、と頭が思い込むのは実は錯覚だ。
大事なのは「現在」だ。現在だけ。
その意味では、自分は「知的」だと思っている人ほど、だまされやすいんだな、とネットの意見などを見ていてしみじみ思う。
ちょっと知的な感じの人ほど、はっきりというと、「うそ」を平気で言っている。
意図的なうそではない、、しかしだから困る。
「俺は、わかっている」
という態度。それは意図的なうそより問題がある。
だって、そんなわけあるだろうか(笑)
人は他人をだまそうと思ってだますのではない。だまそうと思ってたらなんとなくわかるからだ。
問題なのは、「自分はわかっている」と本気で思い込む人は、人を自分の下、と思う。
あるいは、あいつが悪いのだ、と思い込む。
その<態度>だけは問題だ。
そして実はそれだけのことだ。
話の内容なんて、他の動物からみたら、たとえば
「キャン、キャン、キャン!」と言っているだけのことだ。
ただ、
キャン、キャン、キャンと言って噛みつきたがる個体がいる場合がある。ということだ。噛みつきそうなときは、だいたい目が狂っている。なにかを信じてしまっているのだ。
ほんとうに、ある意味それに気づくのは怖いことだ。
それは、実は、話の内容、つまり未来や言葉はすべてあてにならないのだ、ただの「音」だ。と気づくことだからだ。
話の内容が大事なのではまったくないのだ。
狂っているか、健康か。それだけ。生命はある意味シンプルで残酷なところもある気がする。
健康だから長生きするとは限らないし、狂っているから長生きするとも限らない(笑)
ただ、狂っている態度というのは実は誰にでもすぐわかる。実はわかっている。
そしてそれは「明らかな」害がある。それが常識になるべきだ。
なのに、選べない。なぜだろうか。
どこかやはりある意味自分を含め、どこかでほぼ全員だまされているのだ。
「未来」を選べるといううそに。
「知的な」未来、「ロマンティックな」未来、どっちにしろそんなものは実はやってこない。
「正しい未来を選択する人を選ばなきゃいけない」と思っていると
選ぶことはできない。
そりゃそうだ。もともとそんなものはないのだから。
ただ、「俺はわかっている」と狂った目で、人を自分の下と思い込む
その態度にだけは直接的な「現在の」害がある。
それが今もっとも大きい問題だと思う。
今、あなたが「未来をわかっている」という理由のもとに、私を下に見ている。
それは、ただ、「狂って」いる。
未来をわかっている、と思ってしまうと人は、他人をコントロールしようとしはじめるが、実際は未来は「架空」の物語だ。
それを信じると、人は、現在の他の生命を肌で感じることができなくなる。それは病気だ。それは単なる恐怖からの逃避だ。
だから責めてもだめだ。でもとても問題だ。
それが唯一、実際に起こっていることだ。
<態度>がものすごく重要だ。
話されていることは、すべて「未来に対する架空の話」だ。
しかし、政治では常にそちらが話題の中心になっている。
つまりもともとポジティブには選択できない構造になっている。
人に上下はない、とか、そういう「主義」を言ってるのではない。
実はそんなことさえ、人間にはわからない。上があるか下があるか。
上も下もあてにならないし、未来もあてにならないし、右か左かもあてにならないし、戦争か平和かということさえ本当はあてにならない。
ただ、ひとつ。
「俺はわかっている」という「態度」は、
残念ながら根本的にまちがっている。
それこそがもっとも愚かなことだ。
それが唯一の基準だ。
話の内容でなく、「態度」で見る。それが一番実は客観的なのだと思う。
現在のこと。
「普通の私」が選ぶことのできるすっきりとした基準。
しかし、多かれ少なかれ、選挙は、
「だれがわかってるか」(話の内容)の戦いとして提示されている。
一般的にはどこかそう思われている。
そこがもっともだまされやすいところだ。トリックだ。
知的な人ほどひっかかりやすい。
「誰が未来をわかっているかを選ばなければいけない」と一般的にはそう思われている。
しかし、そこにだまされると大変な間違いに参加することになる。
気をぬくとすぐにひっかかる。
でもこういう事態が進行しているのだから、、とか。いやいや。
それは本当のところはわからない。
もともと、「この人がわかっている!」という基準で選ぶべきものではもともとないのだ。
と選挙の朝にあらためて、思う。
もともと「誰がわかってるか」の話になっているのがおかしい。
そうなる時点で、すでに未来への恐怖におののき、架空の話が中心になってしまっているというだけのことだ。
むしろ、わかってるやつは誰もいない、という前提で
クリアな目で見てみよう。
一見ばかそうに見えてもかまわない。
日常でも選挙でも、
「自分は未来をわかっている」という盲信から「人を下に見る」
という<態度>のない人を選ぶ。
というのが基準だ。
その人が、心配そうな未来を持ってきそうに一見見えても、しっかりした未来を持ってきそうに見えても、多数派に見えても、少数派に見えても、そこは別に構わない。
なぜならそれはある意味「話の内容」でしかないからだ(ひどい言い方だけど 笑)
むしろ、大事なことは、わからない、という前提で話ができる人は誰か。
なぜなら実は選ぶのは<未来>ではないからだ。
<現在>の私を選ぶのだ。
政治家に「未来」を託するのではない。
今の自分に「ふつうの」現実が見えていて、それを選ぶことができる。
それが大事だ。
現実は実はとてもすっきりとしている。
きゃん、きゃん、きゃん、といって噛みつく生命と
そうでない生命がある。
そしてどんな生命を選ぶかというのは、別に自分の未来のためでさえない。
だって、何を選んでも、今日の夕方には、いや、一時間後には死ぬかもしれない。
それはまた別の「私」という単なる個体の生命の話だ。しかもそれもまた「未来」の話なのだ。
大事なのは、今の生命を感じること。間違った<態度>は選べない。
それは未来のためではないのだ。残念ながら。
未来のためでなく、ただ、今、「ふつうに」きちんと見ていること。
それだけ。
そういうふうに見えてれば、
どんなに知的な人であろうが、どんなに知識がある人だろうが、どんなにパワフルな人だろうが、どんなに攻撃的だろうが、どんなに友好的であろうが、
幸せなことに、そして、少しは残念なことに(?)
自分の上に立つ人、自分をどこかに連れて行く人など、誰もいない。
あたりまえだけど。
未来をわかっている人は誰もいない。
すべては、ただの「きゃんきゃんきゃん」だ。
しかし、今、人を下に見ている「態度」は、一目でわかる。
それがもっとも危険な現実だ。ほかは架空の物語。
「態度」は大事だ。
それが常識になるといいなぁ。
「ほんとうに気をつけていただきたいなぁ」とよく思うことがある。
自分自身も気をつけていただきたい。と思う。
なにかを信じるとすぐ人を下に見たり敵にみたり。それが人間のもっともおろかなくせだ。ほんとうにおろかだ。
それは他人をでなく、自分自身を、生命全体を、損なう行為だ。
なぜならそれは単なる「幻想の盲信」だからだ。ただただ非現実だ。
狂っている、ということだ。健康でない。
言葉にだまされてはいけない。言葉で未来はやってこない。
時間は連続していない。
今だけがそこにあり、突然なにかがおこったりする。
ただ、
唯一の救い?は
「今」見えている命は、常にはっきりしていてうそがない。割合と。そこを伝えあいたい。
だまされないで、迷わされないで、
わかっていることを大事にしたい。
わかっていることは、「未来などわからない」「右も左もわからない」「戦争も平和もわからない」
ただ、人を下に見る態度はだめだ。すでに盲信している。
というすっきりしたことだ。
もとからわかっていることだ。
右も左もない。何いってるんだろう?
てやんでい、
だ。
そういう目で見れば、
ある意味全部いかがわしいが、多少なりとも害の少ないものが見えてくる。
はなからポジティブな選択などできない。
未来は託さない。
態度を見る。
そして、もっとも「害の少なそうな態度の人を選ぶ」という消極的な選択ができる。
実はそれで十分正解な気がする。
「現在」は思いのほか、とてもクリアですっきりとしている。
そういうすっきりした気持ちが伝え合える世の中でありたい。
楽器を貸すこと
ここ2週間くらいの間に、3回も「キーボードを貸してくれないか」と頼まれた。
他のことはともかく、楽器を貸すというのにはすごく抵抗がある。
うまく言えないのだが。。
一郎は、「他のバットやグローブの感触が自分の手に一回持っただけでもなにかのくせがつくのがいやだから、絶対に他の人のバットやグローブには触らない」そうだ。
まぁ、それをキーボードに例えるのは、無理がある。
というか無理なんだろう。
というのは、ギターやベースは木でできていて基本手作りだから一本一本個性が違うし、木の性質も違うからほんとにそれぞれがひとつの命を持っていて、一郎と同じようなことを言う人がいても筋が通るのだ。
しかし、キーボードの場合は、基本的には同じ型番のものは、まったく同じ工業製品である。
(と少なくともそう、思われている)
また、ぼくはどちらかというと、ジャマイカンのレゲエのキーボーディストが、すごいチープなどこにでもありそうなキーボードを、ありえないくらいかっこよく弾いてるのを見てすごくかっこいい!!と思ったりするようなタイプなので、この楽器は自分だけのもの!とか、世界にひとつしかない楽器がほしい、、というような欲求が強い方のミュージシャンでは決してない。
むしろ、どこにでもある楽器、その日出会った楽器を誰よりも「鳴らせる」ようなミュージシャンがかっこいいな、と思う。
でも、それとはまったく関係なく、というか、逆に?
なんていうか、やっぱりどんなにそれがありふれた楽器でも、どこにでもあるチープな楽器でも、ずっと持ち歩いているその人の楽器にはなにかその人の気持ちが宿っているのでは、と思ってしまうところもある。
僕はとても勝手な人間だ。
ものすごく勝手なことに、人の楽器を借りることになったら、別にそれはそれで気にせず弾くだろう。
というか、いまイベントをやっているゼスト御池というところでも、お借りしているキーボードをずっと弾いている。 すみません。
しかもこれからも自分が他の人の楽器を借りられたら楽だなぁという状況があったら、借りれないか頼んだりするだろう。そして借りられるものなら借りたりすることもあるだろう。
しかし、それでありながら、
これはほんとに理屈でなく、ほんとにエゴイスティックでわがままなだけなのだけど、自分の楽器を人に貸すのには、ほんとにうまくいえないけれども
「あぁ、別にいいよ」
とふっと思える自分にとっての「出会い」のタイミングが必要なのだ。
それ以外のときに
一般的な<もの>として
当然貸してくれてもいいでしょ??
という感じで言われるのは、ぼくはほんとうにきらいだ。
(今回の3件全部がそういう感じではなかったが。)
楽器はどこか恋人であって、
自分の恋人をデートさせるのは、すごい自分の信頼できるまぶだちか、もしくはなにか他の腑に落ちる納得できる理由が必要なのだ。
工業製品であってもぼくの持っている製品はぼくの恋人なのだ。
この考え方は基本的に狂っている。しかしそれで良いのである(笑)
自分は身勝手だからしょうがない、としかいいようながない。
平気で借りるくせに、貸すのはいやだっていう(笑)どうしようもなさ。
今回、ほんとに自分はわがままだなぁ、と思ったが
しょうがない、理屈では説明できないこともあるのだ、、、
理屈で説明できることばっかり書かれているSNSにもうんざりしてきてるからちょうどいいか。。
という文章を読んで、今回貸さなかった人に納得していただけたらうれしいのですが、、
無理だよなぁ。。
大事なのは
大事なのは、
工夫しないこと。
発信しないこと。
少しだめなままでいること。
そんなことをよく思うのだった。
そして言葉を信じすぎないこと。