あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

カイロ

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ぼくは今年で50歳になったのだが、50歳といえばそこそこの年で昔なら人生50年といったくらいだから、もうそこそこ長いこと生きさせてもらってることになるわけだけど、こどものころからずっと不思議なことがある。

それは、とうとうと自分の考えをしゃべる人、というのが世の中には多いということだ。

ぼくとしては、「考え」なんてものは、寒くてしょうがないからその人が自分でポケットに忍ばせてる「ホッカイロ」(これは商品名だな、、)みたいなもんで、ああいう市販品とは違って、赤いのや青いのやさらには複雑なのや多種多様で、基本的には他人に見せたところで、しょうがないものなんじゃないかな、と思うんだけど、どうもその中身を人に説明したくてしょうがない人というのが案外多いんだなぁ、ということだ。

カイロと同じで、寒くてしょうないから「考え」で自分をあっためる。それはまぁある意味「しょうがないこと」ではあっても、なくて平気ならそのほうがより健康なんじゃないか、とさえ思う。

それは子供のころからまわりをぼーってみてていつも思ってたことで、どうしてこんなに「考え」をみんなしゃべるんだろう、そしてそれでケンカしたりするんだろう、と感じていた。
だいたいにおいて、カイロがその人をあっためてるうちはいいが、カイロの見せ合いになったりするとだいたいろくなことなんかない。
 最初はなんだか楽しそうに見せあってるのに、そのうち、どっちのカイロがいいかみたいな話になったり、必ずややこしくなる。
 だってもともとがそれぞれのためにあるものだから!誰がもってるのも他の人とはぜんぶ違うカイロなのになぁ。


なんだかこどものころからずっーっといろんなタイプのそういう話をいろんなところで聞いてきた気がして最近さすがに長期的疲れが出てきた気がする。いや、たのしい話、あったかい話ならまだいいんだけどね。

わりと僕はぼーっとしてるから聞いてるように見えるんだろうなぁ、だからよくそういう目に合うのかなぁと思う。

カイロを入れてるとね、、僕はあったかいんですよ。。
という話ならもちろん聞けるし、
すみません、私のカイロの中身について話聞いてくれますか?

ってちゃんと言ってくれるなら、もちろん楽しく聞くことだってできる。

カイロについて、あなたが感じてること、なら聞いてておもしろい。
こういうカイロ(考え)が私をどうしてるのか(あたためてる、悲しませてる、つらがらせてる)、っていう話なら共感できる。
それは人間の感じ方の話だから。そして、それが「あなたのカイロの話にしかすぎない」とあなたが思ってくれてるなら聞くことができる。

でも、たいてい、自分のカイロ(考え)についてとうとうと喋る人は、まずだいたいそのカイロが自分のポケットにあることが自分にとってもあったかくすらなくて、むしろカイロの成分についていらだっていたり、そのカイロの構造のことで頭がいっぱいになってたりして、つらくなってるものだから、いきなりカイロの成分の内容について他人に話をはじめちゃう。
 大丈夫かなぁ。
 しかももっともまずいケースは、たぶん頭のどこかで「みんながきっと同じカイロを使ってる」、もしくは「使うべきだ」と思ってることが多いようにも見える。
 だから、話せばわかる・・と。
 いやいや、それはあなた固有のカイロです。

 それをつけてると体がかゆくなっちゃうカイロとか、どんどんポケットの中で増殖しちゃって始末におえないカイロとか、そんなもんさっさと捨てちゃえばいいのにもかかわらず、それを後生大事にポケットに忍ばせてるのは自分自身なのに、それを誰かにあっていきなり

「カイロのこの成分AはBなんですよ!!」
と急に一生懸命話しても
聞いた方は、どっちかというと、その成分や構造のことなんかより、
ただ、
「ひぃー、そんな汚いものいきなり出さないでー」

というのが、ざっくりした正直な感じ方だ。
(誰でもきっとそうだと思う。)

うーん、困ったな、えーと、、、僕はカイロについてじゃなくて、あなた自身の今日の気持ちや感じを知りたくて話してるつもりなんだけど、またカイロの話???となってしまって、ほんとうに困ってしまう。

さらに、困るのは、話をそらそうとして
いや、、あのさ、、そういう話じゃなくてさ。もっとさ、、、

そうだ、最近どうしてるの?元気なの?

とか言って話をかえようとしても、
「なんで、私の(僕の)カイロの話を否定するのだ!」
となってしまう。

 おまえのカイロおれ、もってないし!!

 なんでそんなことがわかんないんだろう?

 
 いや、ほんと、古いカイロ、捨てましょう。
 いい加減。なくても結構平気ですよ。なにも変わらない。ただただすっきりします。軽くなるし。


 でもまだ世界がひとつのカイロで結ばれるべきと思ってるへんな人たちがまだいっぱいいて、しかもそういう人たちが「高学歴」とか呼ばれてる人たちの中にとっても多い気がする。
とてもへんだ。

 ふつうの人は、高学歴だろうが低学歴だろうが関係なく、誰しも基本的に、「自分の体と心」で毎日を生きている。カイロはカイロ、と知っている。
 カイロはたよる必要があるときに「自分のポケットにいれて」使うものであって、それで自分をがんじがらめにしたり、さらには人におしつけたりして使うものじゃない。あたりまえじゃないか。カイロなんだから。


 カイロにとらわれちゃったのはとてもかわいそうだし、大変だな、と同情する。ある意味深刻だ。
 でもカイロはたいしたもんじゃない、って気づいてくれないと、話もできない。ほんとに、気づいてほしい。
 
 こっちの言い分として、ひとことでいうと
 カイロじゃなくて、あんたの「感じてる」ことを正直に話せよ(まずは、気づけよ)。じゃなきゃ、こっちは聞いててもなんにもわかんねーよ!!
 ってことやなぁー。
 ほんとにだいたい何言ってるかわからないんだよな。
 その人だけのカイロの成分の話だから宙に浮いてて他の人からはチンプンカンプンに聞こえてる、ってことがあんまりわかってない場合が多いように思う。
 力説してるときはだいたい要注意だよなぁ。

 そして、カイロばかりにとらわれると、気づかないところで、基本的なこと(約束を守るとか、あいさつするとか、相手の存在を感じるとか)に鈍感になっていってどうしても周りから浮いて行ってしまう。

 気をつけないと!
 心配だ。ほんとに!
 悪口をいってるのでなくて本当に心配なのです。はい。

 カイロの話は楽しく!が原則だよな。
 はやくそういうのがあたりまえの世の中にならないかなぁ。

 まぁかなりだんだんそうなってきてるし、確実にこれからもそうはなってくだろうけど、、、

 しかし、この文章は、カイロの会社から怒られそうだな・・・
 実際のカイロ自体には僕は毎冬とても重宝しています。寒がりなもんで、、、

おりる

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おりる

〜ともだちへのエール〜

 

とにかく戦わない

戦いからおりる

そのことだけがあなたを強くし

幸せへと導く

 

それ以外のことは

すべて

言葉が作り出したまやかし

誰かが作り出したのですらない

「言葉」がつくりだしたただのまやかし

 

それがどんなに複雑に降り積もり

網目のようになってるように見えていても

ほんの深いひと呼吸

脱力そして

謙虚に小さくなる

そのひとときの間に

すべてモヤのように消すことができる

 

はじめからそこにありはしないのだから

 

あなたはそのときそのとき

「あなたの感じる気持ち」以上のものではないのだ

残念ながら

 

それが寂しさや悲しさであっても

それ以上のものは最初からどこにもない

 

あなたは常に

あなたの悩みほど大きくない

 

 決別の方法は

たったひとつ

(そしてゆるやかに可能になる)

あなた自身の全ての感情を

たったいま

そのまますべて感じること

少しずつでも

 

それ以外のことは存在すらしないのだ

 

どうか気づいて欲しい

まわりの音に、あなたの呼吸に耳をすませば

それはいつも変わらずそこにある

 

あなたはとてもとても小さい

とても、とても

そして

とても貴重だ

 

でも誰にもどうしようもない

あなたが気づかない限りは

 

戦わないこと

おりること

なにも信じないこと

 

あなたは小さい

とても小さい

そしてその大きさ以上の幸せは

どこにもないのだ

 

つまり

その小さいあなたが

そっくりそのまま

望みうる最も大きい幸せなのだ

 

僕にできる限りの愛を込めて。

 

20170801

 

 

人がだんごになってる会社は終わってる

 フリーランスで仕事をしてる人の間では絶対ない不可思議なことが、ある種の「会社」という組織の中ではおこるらしい。

 今までの経験で、人が「だんご」になってる会社やお店とは仕事してもだいたいろくなことがない。
 つまり、ひとりひとりが独立して、外部の人とちゃんとリスペクトをもって話ができるかどうか、ということだ。

 たとえば、部長A、部下B、部下C の3人ぐらいと僕がミーティングがしたとする。
 ありがちなのが、なにかを言った部下のどちらかに対して

部長Aが
「おいおい、だめだよ、そんなこと言ったら。こちらの方はそういうんじゃないんだから。」
 と僕の目の前で、部下の人の話し方を訂正する。おまえそれなんのパフォーマンスだ?
 もしくは、
部長Aが
「いやいや、そこは僕が説明します。」
と部下の話を、途中でさえぎる。
そこは僕が説明してもよいですか?と部下に聞かないのか?

3人の方それぞれと僕は会いに来てるのだが、そういう風な空気を作らせまい、とする力が働く組織がある、ということだ。
 自分たちの組織を謙遜して、僕のことをたてようとしてくれてる感じだったりすることもあるが、だいたいそういう組織はだめな場合が多いなぁ、と思う。

たいしたことじゃないようだけど、そういう会社はあとでだいたい仕事をはじめてから案の定、気持ちよくことが進まない。ひずみはすべての場所に現れる。だいたいにおいて意外と責任をとらない会社の場合が多い。「個人として」でなく、みんなでひとつの「だんご」だからいくらでも責任を回しあえるのだ。

組織だけじゃなくて、家族とかでも、こどもがなにか言ったときに親が「おまえはだまってなさい」みたいに言って僕と話はじめるような家族はだいたいどこかで問題があったりするように思う。

ひとは基本的にはひとりひとりだ。それを忘れてしまっている組織は、どこかにそのひずみが出ているから、一緒に仕事をするこちらにもそのうちそのひずみがやってくることになる。

 似たような例で僕が大嫌いなのは、たとえば、僕がカウンターでラーメンを食べてるのに、ほぼ目の前で、店長が店員を頭ごなしに(ある時は、こっちに対する演技かな?と思うくらいに)怒ってるような店。それがこっちに対するサービスのつもりか?と思うこともある。
 飯を食ってる目の前で誰かを怒鳴ってる人がいることの方がよっぽどいやだよ、と思う。その部下がどんな失敗をしたにせよ。
 店長、あんたが一番問題だ、と思ったことがなんどもある。チェーン店系に多い気がする。

 あとは、店にはいったとたんに、みんなが一斉にこっち向いて「いらっしゃいませ!」と言うのだが、そこに「すぐ言わなきゃ!」という感じがにじみ出ている店。それも結局同じような人間関係のひずみを外部の人に味あわせているだけになってしまっていたりする。あれもいやだなぁ。

 最近気づいた別のことだが、ちょっと「いい会社」「いいお店」とされている(本人たちが勝手にそう思っている)ところに裏口からなにかの用で行った時に、意外と、挨拶をだれもしてこないときがあるなぁ、ということだ。
 つまり、人として、自分が誰かに会ったら挨拶をしてるのではなく、「会社にとって誰だかわかるちゃんとした人、もしくはお客さんだけには挨拶をしなくてはいけない」といういやいやの習慣がついている、ということだ。
 みんなして、「この人だれだろう?」って目で見られたりしたときによく思うのは、
「誰かが、挨拶して、誰だか聞けばいいじゃん、、」っていうことだ(笑)
 こちらで挨拶して「こうこうこういう用事できた○○ですー」と言いながら入ったりするけど、それでもなんの挨拶もかえってこなかったりする。人間として大丈夫だろうか?

 こっちにとっては、その会社が「いい」会社と言われてるか「一流」と言われてるかどうかなんてなんの関心もないことで、ただ単に、ここの人たちの空気が悪いな、とか、あぁ人としてゆがんじゃったんだな、と思うだけだ。
 いっしょに仕事したくないな。と思う。
 そしてそういう会社や店がはやっていったのをあまり見たことがない。まぁでもでかいところは続いちゃっりはするんだろうけど。
 でも悪い空気は悪い空気であって、いくら続いてもなんの意味もない。

 いつもとても不思議な気持ちになる。

 まわりのフリーランスの人たちの間では、だれかがだれかになにかを強要したり、制したり、あるいは、グループ以外の新しく入ってきた人を怪訝な顔でみたり、そんなことはほぼありえない。あったとしたらよっぽどのなにか変な特殊な事態だ。
 みんなが、どうしたんだろう?なにかあったのかな?この人は、、
 と、「その人」のことを心配するだけことになる。体調が悪いのかな?とか。

 しかしそれが普通になってしまってる組織というのがけっこういろんなところがあるのだな、と思うと、あらためて絶対に関わりたくないな、と思う。
 関わる人がひとりでも減るべきだ、と真剣に思う。
 そんなとこで働いていたら病気になるし、そんなところと仕事しても絶対に気持ちよくは仕事ができない。いくらお金になろうとも。
 やめた方がよい。





 

強さ、と思う部分。良さ、と思う部分。

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人は、

これが、強さだ、と思う部分によって

もしくは

これが、良さだ、と思う部分によって

自分を少しずつ滅ぼしていく。

歳をとっていくとそれが顕著だ。
その人にとって、これが「強さ」の構えだ、と思ってる部分によって
その「構え」自体が原因で、本人の中で何かが少しずつほころびていく。


最近そのことがすごくよく見えるようになった。

 

結局、強さ、も、良さ、も頭の中の言葉なのだ。
それに自分の体がついていかなくなることで、人は困難におちいる。
周りに言い続けてきた、「強さ」や「良さ」をそう簡単には引っ込められないからだ。


しかし、本当にすごいなぁ、と思う人は、皆、そこから自由である。

僕の周りの年配の人は、普通に比べたら、本当に自由なものの見方ができる人が多いなぁ、とよく思う。
ただ、それだけに、「あぁ、ここだけは、この人は、その<強さ>から逃れられないのか」とか見えてきてしまったりする。
そして、そういう時に一番ドキッとする。
自分のことをふりかえるからだ。
自分の中にも、きっとそういうところがある。
「ここになると、どうしても頑張ってしまうところ」
それこそが、僕にとっての、病気の原因、とでもいう部分だ。
そこに気付けるかどうか。


「強さ」から自由な人はとても少ないが

「良さ」から自由な人はもっと少ない。

そういう意味では、
一見「変な」人と思われている人が

実はとてつもなく自由であり、結果としては本人が意識しないところで

すごく強かったり、すごく良かったりする。
世の中そんなものだ。

言葉で相手を負かそうとしている人など、強さという意味で見たとしても

ある意味、論外に近い。
どちらかというと、すでに病気になってしまっている、とも言える。

これは人生の話でもあるし、演奏の話でもある。

いずれにせよ、世の中は結構、見かけと本質が逆になっている。
神様というものがいたとしたら
なんでこんなにトリッキーに「人間」というものを作ったのだろうか。

しかし、それは神様のせいではなく、言葉というものを人間が間違って使い始めたからだという話もあったりする。

ともかく、言葉で話されていることなんて、本質のほんの薄皮ぐらいのことでしかないのではないか、とよく思う。

自分のために言葉を使うのをやめよう。

それこそが最大の罠だ。

「頭がお花畑」と言う批判語のダメなところ

頭がお花畑と言う批判は戦うことで最初から負けているなぁとよく思う。人は死ぬ。でも生きている間はそれなりに愛し合い協力できる。それは小さな謙虚な現実。一見リアルなことを声高に言っているような人の方が死を恐れてどでかいことにすがっている。怖がらず、今日も静かに強く、普通の愛を語ろう。

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平凡さを恐れない。MD。

企業や組織はだいたいにおいて利潤や、特に目の前の「成果」を追いかけすぎて、たいてい古いものを切り捨てたり、マイナーなものに潜む大事な部分を、平然と無視したり、当たり前のように大事なことを忘れていくもの、と思い込んでいた。(そしてそこに属している、ということだけで誰も責任を取らない。)
 なおかつ、あせってる割には、結局目の前しか見てないから成果も出せないという場合も多い。
 結局みんなで似たような未来を追っかけてたらそんなもの成果が出るわけなんかなくて、みんなでただ「あせる競争」をしてるってことになっちゃう。
 
 結果を狙って何かをやるのはなんだかださい、というのがもっと当たり前になると良いなぁ。
 とよく思っていた。
 
 企業だけでなく、アートや音楽でも、たとえそれがどんなに工夫されてたり、一見「すごそう」でも結局成果ねらいのものはつまらない。そういうねらいが透けて見えちゃう。
 本人の就職活動。
 
 そういうものよりは、一見少し鈍いくらいのもの、「間違いや平凡さを恐れてないもの」の方がずっと好きだ。かっこいいと思う。そのかっこよさは華やかではないが、本当の存在感や重量感がある。
 レゲエも、レゲエの中のそういうところが好きだった。ブラジル音楽でも、江州音頭でも、やっぱり同じ。
 その人がそこにいる、という力。そういう表現が好きなんだが、それって「表現」っていうのがあってるのかな、とよく思う。表現て言うと表現しようと思ってやったものだけを指すみたいに聞こえるから、どうしても「発信」過多になっちゃうんじゃないかなぁ。言葉にも責任がある。
 
 そういう目立たなくても魅力があって長期で見たら周りに素敵な未来をも生むような、ロングスパンの作品や演奏、それからお料理、そういうものが世の中にはいっぱいある、とよく思う。いつも頭が下がる。
 そういうものに出会うたびに素直に感動できるし、自分の中の軽薄な部分がなんかいい意味で「しゅん」となってくれて、自分で反省するというより自然に消えてなくなっていく。
 それは本当に心地の良い経験だ。
 あ、そうだった。生きることはそんなに軽いことじゃないし、あせることでもないのだ、競争でもない、ということを思い出させてくれる、そういう作品や演奏、料理。
 そういうものたちはやたらと主張したりしないから、騒がしくない。でも強さがある。
 強い犬は騒がしく吠えないのだった。
 
 そんなことを思ってたら、、
 企業においても、こういう会社もあるんだなぁ。

www.phileweb.com

 
 だいたい企業は、、とかアホで大まかなグルーピングして考えてたらあかんよな、とちょっと反省。
 いろんな人の数だけいろんな会社がある。僕はそれを直接は知らない。知っていることはほんの一部のことだ。
 
 そういやうちにもMDがたまってたっけ。

自慢し排他する弱さ

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 最近どうも「非国民」だとかなんだとかそういう言葉がふつうにちらちらネットとかで見かけられるようになった。
 そんなことをいうのがもっとも情けないことだということを知らないんだろうか。
 でもそんなにそれが多くの人とのセリフとは思えない。
 そういう風に持って行こうとしている人はいるかもしれない。

 本当に強いものは、他のものと共存できるのだ。

 
 すでに私たちは同時に存在している。
 本当に強いものは、「どううまくやっていくか」考えるものだ。
 思想の上で、他人を排他するのは、現実逃避だ。
 それはもうすでにワールドスタンダードだ。当たり前のこと。

 仲間を選び、同じ考えのものだけでまとめようとするのは、弱く、「溺れるもの」だ。
 怖いのだ。共存していること自体が怖くてしょうがない。

 怖くてしょうがないから排他する。そして仲間だけで集おうとする。
 その過程自体が、もう現実から逃げている。

 現実と逃げ続けて、自分以外のものを言論の上で殺し続けても、いつか気づくのは、

「自分が逃げていた」という事実以外のものではない。
最終的に出会うのは思想ではないのだ。
現実だ。生物としての。
自分は弱かった。他の存在を認められなかった。

「排除する」ということ自体がすでに「溺れている」ことだ。