あたりさわりがない
今日は今年に入って2回目の音楽広場であった。
プチ・ポワールさんが、今日もギターとアコーディオンの音色を広場に響かせてくれた。
終わってお話をしていて、
「プチ・ポワールさんは、すごくいろんなバンドや歌い手さんから、対バン(ライブで一緒に出演するバンド)として喜ばれるんじゃないかなぁ、、と思うんですよ」というようなことを僕が言った。
アコーディオンの秦さんに、「なんか、あれですよね、僕らなんかあたりさわりない感じですもんね」と言われて、
その時、ぼくは「いや、そういう意味じゃなくて!」と言って、プチ・ポワールさんがいかに「ただ、あたりさわりがない」のでなく、いかに魅力があるかを説明したのだった。
が、同時に僕の頭の中ではなんだかすごく別のこと(?)がおこっていた。
つまり、「そうそう、あたりさわりないってことがほんとにすごいことなんですよね!」と言っている自分がいた。(が、そのへんはうまく言えなかった。)
言葉は難しい。あたりさわりないっていうのはほんとにすごいことなのだが、なかなかそれをうまく言うのは難しい。
今日はフォレストの妹尾さんとも広場の行く末についていろいろ語り合ったのだが、そこにもなにか共通点のようなものがあった。うまくひとことでは言えないのだが、「主役のいない世界」といったらいいのだろうか?
もちろんその瞬間瞬間は主役に見える人がいるのだけれど。
情報は、言葉になったとたんに結局のところどんなものでもグルーピングをうんだり階層を生んだりする。
そして、一見そうでないように見えるものが、実は結構無意識のところで(もしくは意識的に)そういうことを上手に利用したりしていたりする。
最近、「アート」って言われるものについてとても疑り深くなってしまっている自分はそういうところにいつも敏感になっている。昔からのくせかもしれない。が、最近やっぱりさらにそうである。
そして下手すると「うえ〜!反吐が出る!」というよくない表現をしてしまいそうな気分になったりする(笑)「反吐が出る」というのは、汚い表現だが、ぼくの中では「同じことばかりで退屈な状態」だ。汚いものとかよりもっとひどい状態のこと。
うまく言えないが、どこかでだれもが(もしくは何かが)主役になりたがってしまう、そういう可能性がある。言葉は価値が大好きなのだ。それは人間の性格とかではなく、ある避けられない機能なんだと思う。
そして、そういうのにあきている。常に。
でも逆にそういうのがわかった上で何かをしようとしている人とは、とても話が簡単だ。らくちんな感じ。
実は、ほんとうに、楽しいことっていうのはものすごく近くにあるんだと思う。
近く、というのもちょっと気どってる感じだよな(笑)
まぁ、こういう文章を書く事自体まったくもってとてもやぼなことなのだけど。
この、あたりまえの魔法2、は夜中の愚痴ブログ、、という感じです。