あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

オムレツ。ボーカルと伴奏者。ゲームと砂場。そして星。

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(写真は今は亡き、スピーカーにのぼって外をみる夢吉)


 ここ何年か(おそらく10年ぐらいだろうか)もしくは、ある意味この仕事をはじめてからずっと、うまく言えないのだが、「それをどう考えたらいいのか」迷っていることがある。ちょっと文章にしてみたい。
(と思って書いてみたら、最終的には意外とセンチメンタルになってしまった。)


 それは、ボーカルやリード楽器の人が、ピアノの伴奏のアレンジや弾き方について指示するときの指示の仕方、およびそれに対する伴奏者の答え方、について、だ。

 もちろん、ボーカル(もしくはメロディー楽器)の人のリーダーバンドだったり、ボーカル(もしくはメロディー楽器、以下略)の人のための仕事の場合は特に、そのボーカルの人が歌いやすさや満足が大事なのは言うまでもない。
 そして、特に仕事ではなくても、当然、伴奏者はボーカルの人が気持ちよく歌えるように弾くのが楽しくて伴奏をしている。

 音楽をやっている人意外にはわかりにくいことかもしれないが、やはりボーカルの人とその伴奏をする自分のような(ピアノとかギターとか)伴奏者は、微妙に音楽的役割も違うし、ステージでの立ち位置も違う。
 もちろんピアノやギターがリード楽器になることもある。楽器の場合、歌と伴奏のどちらの役割を果たすこともできる。

 ボーカルの人がいる歌もののときにピアノは伴奏楽器としての役割を果たすことが多い。

 伴奏者はボーカルの人が満足するように演奏する、というのは(それが楽しくてやることだから)ある意味あたりまえのことではあるのだが、
 それはわかっていながら、たまに「???」というなにか思考がとまってしまう感じの違和感というか悲しさ??のようなものをおぼえることがある。
 たとえば
 「あ、そこのところもうちょっとこういう風に弾いてみて。そうそう。その感じ。その感じでここからここまで弾いてみてくれる。そうそう!それ。」
 みたいな言い方をされる場合。

 これはぜんぜん珍しいことではなくて、むしろ普通そう、っていうくらい一般的な言われ方だったりもする。
 でもなんかそのたびに僕は???と思ったりしてきた。


 もちろん何を言われてもまったく平気!なんでも言われたとおりにやっちゃうよ!!というタイプのミュージシャンの方もいらっしゃる。ぼく自身もどちらかというとそういうタイプではないかと思ってるけど、僕なんかよりずっとなんでも答えられてなんでも聞いてあげれる人もいて、その対応力や柔軟さに感動したりすることもある。
 でもそういう人であっても、上に書いたような感じで言われてるのを横で見ていると、やっぱりなんか見てるこっちも「???」と思ってしまったりする。

 この文章は、ある意味ボーカルの人やメロディー楽器の人に読んでいただくと、すごく「クレーム」みたいに読める文章かもしれない。しかしこれはクレームではなく、なんとなく一般化して言葉にしてみたい、という(とても人間らしい)単なる欲望だ。じゃないと自分自身がなににとまどってるのかがわからないのだ。(そういうことが自分には多い。)


 ずーっと、たぶん10年どこじゃない20年ぐらい、疑問に思ってきたことで、しかも伴奏をしている人はみんなそういう違和感をどこかでかかえながらやっている経験があるのではないか、と思ったりしてきた。

 でももしかしたら、そんなところでとまどうのは僕だけかもしれない。
 というわけで、「一般的な」ひとつの単なる「おはなし」として書いてみたい。

 ちょっと今日ふと、あれ、こういうことかな、と思ったことがあったので。

 オムレツの話。

 

 たとえばカップルのどちらかがどちらかのために料理を作っている。いろいろ想像しながら。
 あぁ、あの人は卵が好きだから、今日は卵料理にしよう。今日の顔色は、、うん、オムレツにしてみようか。。喜ぶかな。
 お皿はこれにしたら色が映えるな。。。

 またそこにはもちろん相手のためだけでなく、自分の料理技術に関するいろんな実験ももちろん含まれる。

 「あ、最近覚えたあの本にのってたオムレツのおいしい作り方をためしてみよう」とか。

 まぁ、そうやっていろいろ工夫して、作っていく。卵を混ぜるときにちょっとだけお塩を入れて、、生クリームは普段使わないけど、ちょっとだけ今日は入れよう。そして、フライパンをよくあっためて油をしく。卵を入れて、、と。

すぐ片側によせて、、固まらないうちに・・・

 ふと気づくと当の相手が、横に立っている。
 「あのさ、その君のフライパンの軽いゆすり方が好きだなぁ」
 「あ、ほんと?それはうれしいな」
 「それをもっとふってみてくれる?」
 ??ふるの?と思いながら、言われた通りに振ってみせる。
「あぁ、そうそう!もっとふってみて」
 いや、、、オムレツが・・
「いい感じ。で、はしでかき回してみて」
 あれ、かき回す?
 あ、まぁ寄せる前に軽くかき回すやり方もあるけど、、

「いや、もっともっと。いい、そうそう!」そうそう。もっと横にふって。はい!そこで塩入れて。」
 塩さっき入れたけど!!
「そうそう。すごくいい。もっとかき回して!できたできた!」

 ・・・・まぁできたけど、これスクランブルエッグだよね。。


 みたいな感じかなぁ。

 まぁ、ボーカルの人と演奏してるときは、いっしょに料理はじめてるようなものだからちょっと違うっちゃ違うのだけど。でも言葉でいきなり演奏について言われる、、という場面から浮かび上がる物語はこんな感じかな。

 いま書いてておもったが、音楽、特に演奏でのコラボレーションは、ある意味セックスみたいなもんだなぁ。まぁ、月並みによく言われる比喩だけど。
 うまく相手をのせることも大事なのは言うまでもない。

 しかし、言葉というのはどういう場面でも難しいものだ、と思う。
 音楽で言うと、演奏(実際の行動)で乗せてほしい、伝えてほしい、というのも常にあったりする。
 なにかをしてほしいのなら、演奏で伝えてから言葉にしてほしい。そこが料理とは少し違うのだろうか、、、いや、ほんとにすごい料理の人はやっぱりそうなんじゃないかと思う。
 (マクロビオティックのほんとうに極めている人は、音の響き方とかにもすごく敏感だったりするらしい。
 なにかをスプーンでかき回したあとに、入れ物のふちで「かん、かん」って叩いてスプーンについてるものを落とそうとしたら怒られたという話を聞いたことがある。
 金属の響きについての話らしい。すごいなぁ。音楽とまったく同じ「波動」の話なんだと思う。)

「言葉でのせて違う方向に持っていく」というのはなかなかともするとなんだか変なことになる。のかもしれない。
 言葉で伝えるなら、むしろ、「のせてくれる」より、
 「その料理は今日は違うんです(こちらにとって)」
 「その体位は今日は違うんです(こちらにとって)」
 「そのアレンジは今日は違うんです(こちらにとって)」
 とはっきり言われたほうが楽だったり、必要だったり、する場合がある気がする。

 

 うまく言えないのだが、すべてをはっきりと言わない、というのは逆に変なことになったりする。

 というようなことだろうか。違うかな。。

 (想像すると)会社とかの仕事場でもそういうことって多いのではないかなぁ、と思う。
 乗せ上手な上司、というのは一般的にはよい、とされるのかもしれないが、それが逆に暴力的になってしまうこともあるんじゃないだろうか。

 命令したり、指図したりするのは(もちろん)よくないのはあたりまえだが(それは論外)

 かといって、知らず知らずに「のせる」のでもなく、
「今日は、<僕が>オムレツが食べたい気分じゃないんだよね。だから作ってくれますか?」
 ときちんと言えるかどうか。
料理をしている方も、言われたままにフライパンをふりはじめるのでなく
「えっと、<僕が>考えたのは、オムレツを作ることなんだけど、<あなたの>食べたいのは違う?』
ということを言えるかどうか。
なんかこういうことって、音楽以外でも、よく出てくることなんじゃないかなぁ、、と思ったりする。

そういうのを、はっきり言わないで「空気を読みあう」みたいのがよしとされている場合もあるみたいだけど、そういうのっていい音楽になるのかなぁ、、と考えこんでしまったりする。
ほんとの自然発生というのとも違う、なにか変な料理、みたいな。

 そういう意味では、ある意味、「サポートミュージシャン」という立ち位置がはっきりしているバンドにいて、頼む方も「こういうふうにしていただけますか?」ときちんと頼む、という関係は、以外と関係性がわかりやすいから楽だしすっきりしているのかもしれないな。とも思う
 いっしょにやってるのか、それともそうじゃないのかがはっきりしていない、というのはなかなか難しいものだったりもする。

 昔、あるバンドで僕が「プロデューサー制」というアイデアを出して、それを試みたことがある。
 曲ごとにプロデュースする人を決めてしまって、アレンジを全部その人に従うのだ。
 これは料理でいう当番制みたいなもんで、一品一品、その品はその人の指示に全部従う、と決めてしまう。
 指示する方も責任感が必要になってくるし、答える方もそうだ。
 わりととてもうまくいった。
 プロデュースする側としての自分、だれかのプロデュースに従って演奏する側としての自分、ふたつの自分が発見できたりもする。
 
 ゲームのおもしろさ、というのはそのへんにあるのかな、と思う。
 こどもとの音楽遊びでも、ゲームのルールがある程度あると、役割がはっきりするのでとても楽ではある。

 しかし、自分がしているワークショップの中でも、どんな音楽遊びのゲームよりも、何も決めないで、偶発的に起こるのを楽しむ「音の砂場」というワークショップが僕は一番好きだったりもする。

 なにもルールがない状態で、どちらが、何を望んでいるか、を気持ちよく伝えあう、というのはとても難しいことだ。
 しかし往々にして、いい音を出すミュージシャンはそういう「気持ちよく伝え合う」すべを(その人なりに)確立していたり、心得ていたりするように思う。
 そういう意味では自分もまだまだだなぁ。と思う。

 年上のミュージシャンでそういうのが驚くほどスムーズな人もいたりする。
 あるいは、なんでもだまってやってくれる人もいたりもする。
 しかし、かといってなんでも受け入れてしまう、というのが魅力的、とも限らないなかったりもする。とまだまだ若造の自分は思ったりもする。
 難しいものだ。

 

いろいろ書いてみた。

はたしてそんな感じだろうか(??)

 実はまだよくわからないままに書いているところがある(笑)

 こういうことは、もうしばらくしたら、あぁ、そういうことか、、とかもっとくっきりと見えてきそうなんだが。。まだわからない。

 あぁ、しかし究極は、だまってうまくいくのが一番相性がよいってことかもなぁ。。笑
 と思ってしまったりもするある意味弱い自分もいる。
 それをいってしまうと、もともこうもないし、ちょっとせつなくもなる。

 だまっててもうまくいく。
 そういう相手がみつかる、というのはほんとうにまれなことだ。
 星の数ほどある可能性の中の、数少ない出会いの中の、その中のまたほんとうに数少ない貴重な出会いなんだろうな。と思う。
 
 しかもその人との演奏がある時期そうなったからといっても、いつまでもそうであるとは限らない。
 恋愛にとてもよく似ている。