あきらめること、と、チェックシート
過去の失敗や、後悔を、取り戻そうと
現在をかんばる。
それはもっとも破壊的なこと。
実は緩慢な「自殺」なんじゃないかと思う。
一見、とても頑張っているので、
献身的に見える。
でも実は現在の「愛情」に基づいていない。
永遠に埋まることのない喪失感に基づいている「頑張り」は
最終的にすべての周りの人をも飲み込んで本人も最終的には苦しみの中に終わる。
本人もそのことを望んでいるようにさえ見える。
なぜなんだろうか。
たぶん・・
過去は本当にもう今は「ない」から。
それがどこかでは本当にわかっている。
しかし認めたくない。
起こってしまったことをどうしても認めたくない。
だからなんとか取り返そうと未来に向けて頑張る。
しかし過ぎた時間は、「巻き戻せない」のですらなく
「今は本当に、もう<ない>のだ」
跡形もなく。
それをどこかでやっぱり立ち止まって認めないと
本人も、そして周りの誰もが幸せになれない。
いまある愛情に気がつかないからだ。
過去だけではなく、ある意味本当は何も「とりかえす」ことはできない。
そしてまたこれからを何かを獲得することもできない。
ただ、一瞬、一瞬を大事に生きていくしかできないのだ。
それがちゃんとわかって必要な涙をちゃんと流すことができないと
人は「問題意識」という隠れみののもと
「私はまだちゃんと頑張っている」という自己肯定のために
周りも巻き込んで自殺していく。
それは肉体のことだけでない。
精神が「本当に幸せにならない」
そういう道だ。
地獄への道は、「善意」という名の敷石で埋め尽くされている。
という言葉がある。
大げさな善意だったり、目標だったり、そういうものはまず疑ってかかる必要がある。
それ以前に現在と周りの人たちがちゃんと見えているか?と。
Too Much なものにはやはり隠れた理由がある、と思う。
最も無自覚で、破壊的な「攻撃」。
それは本人が(完全には)気づいていないことから起こる。
でも少しはわかっている。たぶん。
本当に「現実を認める」ということについては人は弱い。
弱い「から」攻撃する、のですらない。
弱さから何かにしがみつくこと。それが永遠に埋まらないブラックボックスを作り出す。それがすべての人を巻き込んでいく「ネガティブな穴」になる。
それは一見とてもポジティブに見えるのだ。
しかしその穴は埋まらない。
なぜならそれは本人が作り出した、現在ではないところに向けた「穴」だからだ。
埋まるわけはない。
そして、本人がその穴自体になることほど辛いことはない。
だからこそ、まずはゆっくり止まって見渡すこと、ゆっくり休むこと
が常に必要だ。
のんびりしなさい
と子供に教える親が増えて欲しい。本当に。
そしてもちろんのこと、大人がまずは休まないといけない。
それは体のことだけではない。
落ち着いて見渡して、ある意味「あきらめること」もとても大事だ。
「頑張る」ということには恐ろしいほどの「嘘」が含まれていることが多い。
本当に何も求めない「すがすがしい頑張り」というのは、
すでに「頑張り」ですらない。
ただ「元気である」ということなら誰をも傷つけたり、無自覚に軽んじたりすることなどないだろう。
なぜなら、「ちゃんと見えているから」だ。
何かのために元気なわけではない。
何かのために「元気」というのは危ない。
現在、いま本当に周りにある「愛情」に気がつかないまま
本当に大事なものを損なっていく。
攻撃的な論争に明け暮れている人は本当に気をつけたほうがよい、
と特に最近よく思う。
それがどんな立派な理屈や大きな成果を伴っていようとも。
周り中が、そして本人が幸せにならないのではなんの意味もない。
何かを達成したとしても、本人の中のチェックシートに「達成した」というチェックがつく、それだけのことになってしまう。それを誰が喜ぶだろうか?
もっとも過酷な現実は、そういうチェックシートは「永遠に埋まることはない」と決まっている。そこに大きなトリックがある。実は埋まることはないことで機能している。
未来がやってきた時にはそれが現在なのだ。
常に未来を見ている人は、何も見ていない人だ。