あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

プロとアマ

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 プロはやっぱりすごいんですか?プロとアマの違いってなんですか?


 プロとアマの違いについては、自分がプロと言って活動してきている以上やはりよく質問されることがある。
 といっても、ぼくは見かけがプロっぽくはないようで、10年以上もつきあいがあったジャマイカ人に、ある日急に「え!JUN、あなたはプロのミュージシャンでやってるの?そうは思わなかった。」と言われて、「え、じゃあ何やってると思ってたの?」と聞いたら、すごく言いにくそうに「いや、普段は秋葉原とかでバイトしてるのかと思ってた」と言われたことがある。なんで秋葉原なんだ?とその時には強く思ったのをおぼえている。それももう10年以上前の話だが。


 まぁ、それはいいとして、、
 ふつうの意味でいうと、プロとアマの違いは、「それで食ってるかどうか」ということのようだ。
 自分としては、「いやぁ、アマでも上手な人もたくさんいますしね、、」と言ったりする。
 実際金をとってるからすごくいい音楽を作ってるとは限らないなぁ、とは本当に思う。
 なので、基本的には、「プロだろうが、アマだろうが、いい音楽作る人とそうじゃない人がいますよ」というのを自分の意見としているのだが、でも、なんかそれとは別に、言いにくいのだが、「いや、そうはいってもあなたは確かにアマチュアかもな、、」と思うことがたまにある。
 それは音楽の上手下手ではない。耳の良い悪いでもない。

 どういう人があきらかにプロではないか。
 それはプロに挑もうとする人である(笑)
 (これじゃトンチみたいだけど。)

 でもそういうことがあるのだ。
 このことをどう説明したらよいのか今までもやもやとしていたのだが、さっきふいに、あぁそうか、と表現する方法がわかったので書いておこうと思う。言葉の整理もたまには(笑)役にたつのだ。

 たまに、相手がプロということがわかっていて、「ちょっとそれに挑もうとする人」というのがいたりするのだ。

 ここ数年で言われたのは、たとえば
「プロだったりしたら、こんなコード譜みたら、パーっと弾けちゃったりするんすか?やってみてくれませんか?(どうなんだ、見せてみろよー)」みたいのとか
あるいは、機材関係のことで
「これとこれを使うとこうなるんですよねぇ、、、(プロなんだからそれくらい知ってますか???)」みたいのとか。

 文章だとわかりにくいが、人の表情とか言い方というのは正直かつ微妙なもので、そういうときに「ただ、聞いてる」のか「ちょっと、挑戦(もしくは自慢)しようとしてたりするか」というのはすぐわかるものだ。

<ぼくはアマチュアだけど、そんじょそこらのプロよりは音楽のことをわかってるだろう>、と自分で思ってる人なのだな、というのはすぐ顔に出るので、すぐこちらにも伝わってしまう。

 そういうときに感じる変な違和感のようなものが必ずある。
 でも、毎回「はて、もちろんたしかにアマチュアの人でもぼくよりコードを見てすぐばーっと弾ける人とか、ぼくより機材に詳しい人とかもちろんいるわけなのだが、、。でも、なんで僕は毎回こんなに深く?????となってしまうのだろう」と長いこと思っていた。
 いどまれてももちろんいいはずなんだけど・・。でもなんでこんなに無力感におそわれるんだろう。
 という長年の疑問。

 しかし、ついさっき、あぁそういうのに似てるんだな、といういいたとえを思いついた。

 何に似ているか。説明してみようと思う。

 ぼくは、埼玉のある町で生まれたのだが、生まれたときから大学に入るまではずっとその町に住んでいた。つまり17、8年くらいか。いまではその駅前はかなり大きなビルとかができてしまったりして人も増えたけど、子供のころはその駅前のあたりをぼくは鼻を垂らしながら自転車で走り周っていた。こどものころは道路だけじゃなくて、近所の家の塀の上とか、屋根の上とかはだいたい歩いて回った。どこのうちの庭のうらから、どこの家の屋根をつたっていったら、どこに出るかとかも全部実験していた。線路を走って渡る危険な遊びもした。

 その後、その町で初恋もしたし、なんどもふられた。いろんなけんかもした。親とも兄弟とも友達ともケンカをした。いろんなことでなんども泣いたし叫んだし、ひとりでとぼとぼ歩いたりもした。
 もちろん楽しいこともたくさんあったし、町がだんだん変わっていくのもなんとなく感じていた。そうやって僕は大人になった。

 たとえば、そんな僕のところに、かなりその町について興味をもってたくさんのことを調べてきた人(もしくは、ちょこちょこ旅行に訪れる人)が、ぼくを「プロのツーリストとか観光案内の人」か何かと勘違いして、張り合ってきたらどうだろう?

 「この駅前には、〇〇っていうすごいおいしいケーキ屋があって、〇〇っていう人が創業なんすよ?(俺より知ってますか?)」とか
「この町で、こういうバスに乗ると、こういうとこに行けるんですよ(そういう知識もってますか?)」とか聞かれたら、ぼくはきっときょとんとしてしまうだろう。


 いや、正直そういうことあまり知らない(あるいは知ってる)けど、だから何???


 あるいは、「この町に住んでるんだったら、ぱぱっと駅までいけちゃったりするんすよね。やってみてくれませんか?」とか言われたら、「なんで毎日やってることをやってみせなきゃいけないの?」って思うだろう。


 そういうのにすごくよく似ているな、と思った。
 プロのミュージシャンに挑もうとするアマチュアの人にとっては、その町の「住人」と「その町の観光案内のプロの人」の区別がついてないくらい、なにか大きな勘違いをしている気がする。

 あぁ、そういうところが大事と思ってるのか、、ということはわかるのだが、答えることができない。あまりに視野が狭すぎて。そこじゃない、ということを教えてあげたいが、そういう人は勝つことばかり考えてるのでこちらが伝えるのもすごく難しくなってしまう。はぁ、たしかにあなたのそこはすごいですね、というしかない。


 こう考えてくると、やっぱりこの文章で僕がつかっている「プロ」「アマ」っていうのはお金をとってるかどうかではないのだな、と思う。(普通の言葉の使い方とは違うことを書いているのかもしれないと思った。)
 まわりのミュージシャンを一人一人考えても、ずっとバイトしてようが、ぼくが絶対「アマチュア」とは思ってない人が、たくさんいる。
 しかしそうやって挑んでくる人は、確実に「アマチュア」だ。

 ぼくの大親友に、ずーーーっと他の仕事をしながら50年近く、自分の音楽を作ってるやつがいる。テクノとかアンビエントとか。
 彼は録音も大好きだ。彼はぼくが学生のときから町で会うと、ヘッドフォンをかけながらマイクを持って町の音を録音して歩いてたりしてた。それが日常なのだ。
 曲を作っては、それをためておいて、何ヶ月もたってからそれを聞く、そして少し直す。そしてまた何ヶ月もおいておく。ということを何十年も続けている。一人で熟成酒をずっと作り続けている杜氏の人みたいなものだ。
 彼は恐ろしく耳がいい。ある意味では僕より耳がずっといい。
 耳の良さもいろいろな角度があるから、ぼくはぜんぜんそれを素直に認めることができる。
 そして、彼はずっと他の仕事を続けることで自分の音楽を守ってきている気さえする。そういう意味では仕事の仕方という意味でも、ずっと音楽をやってきている自分に対する戒めとして彼の生き方は僕にとって大事な教師にもなっている。
 彼は僕にとっては完全に(どちらかと聞かれたら)「音楽のプロ」である。アマチュアとはみじんも思わない。(でもある意味聞かれなかったら、プロとかアマとかいうのも失礼な気さえする)。やはり尺度はお金ではない。
 そして、もちろん、彼は、絶対に「挑むようなこと」は言わない。いうわけはない。彼は音楽の村の住人だから。何が大事かよくわかっているのだ。

 もちろん、いろんな部分的なテクニックというものは音楽にもある。なんにでもあるだろう。
 そして、プロと言われる人でもそれをもちろん全部知っているわけではない。
 だからどこか一箇所でプロに勝つことはたぶん場合によってはそれほど大変ではないのかもしれない。
 しかし、一方で、むしろ、「どれだけ自分が知っていないか」を知っているのがそのジャンルの住人だ。と僕は思う。そしておそらくそれをコンプレックスには思っていない、ということだ。だってそこに住んでるんだから。
 その町にずっと住んでいれば、自分が知らないその町のことを知っている人の存在がまわりにずっとあるわけだ。
 つまり、町の何かについて自分が知らないという事実、あるいは、それについて「おそらくこのくらい知らない」という知識(というかそれを知るのは「知識」よりもっと深い「感覚」な気がする)こそがちゃんとついていくわけだ。
 俺は「ケーキ屋の由来は知らん」しかしちゃんとここに住んでいる。

 全部を知らなくとも、その町にずっと住んでいる、ということにもっと別の深い意味があるわけだ。
 そこのケーキ屋の由来など知らなくても、そこのケーキ屋の前を何千回と通っていればそこの入り口の風情や、そのケーキ屋さんの佇まい、そういったことを肌で感じている。それを「毎日」感じているのだ。
 たとえば、そのケーキ屋さんについての詳しい情報を話す人がぜったい周りに何人かはいただろう。でもあえて「それを自分は覚えなかった」という貴重な経験をしてきているともいえる。何をいってるか伝わるだろうか。

 その町に関する知識や技術を競おうとする、という時点で、ちょっとその町の住人ではないことがばれてしまう、ということが世の中にはあるのだな、と今日あらためて思ったのだ。
 たとえば、もし機材に詳しくなくても、プロのミュージシャンは「自分がどのくらい機材に詳しくないか」を逆によく知っている、と思うのだ。そして知らなくても「その先にどれくらいのことがあるか」はなんとなくわかっている。肌で。
 そして、「知っている」ことの量よりも、
「いかにその人が自然に、自分がその分野について<何を知らないかを知っているか>」
ということのほうがよっぽど、その人がその物事に通じているかどうかを図る尺度になる。ということなのではないかと思う。

 そういう意味では、どんなに有名なミュージシャンでも「プロたるものは、、」と後輩に「知ってるかのように」説教を垂れるタイプのミュージシャンを僕は基本的にあまり信用できない。売れてたりはするのかもしれないが、この町に長くは住んでないのだな、と単純に思う。そして、ほんとにこの人の音はいいんだろうか?と疑ってかかる。そして、そういう疑いはあまりはずれたことがない。
 もちろん「音楽業界」における常識みたいなのもあるんだろうが、そういうのが全面に出ちゃっていると、なぜだか逆にアマチュアっぽく見えてしまったりするし、それがまた音にも出てしまうものだ。だって町の観光ガイドに乗ってるのは、その町の一部分である、というかほとんどメインのことではない。観光ガイドにもいろいろあるように、「業界」っていうのも世界とか地域でいろいろいくらでもいろいろある。そこにはそれぞれ楽しさはあるかもしれないが、別にそれだけのことだ。それぞれがうるさくいろいろ「言っている」だけだ。

 そんなの読んでも「町のことなんか全部わからない」とわかっているのがその町の住人だ。

 <いや、ぼくはそのケーキ屋さんについて何も知りませんよ。>
 そう言える人のほうが、はるかにその町の住人なのだ。

 <自分はプロだかアマだかよくわかりません。>
 そういう人の演奏のほうがよほどすごかったりする。

 ずっと「そこで」暮らしている、ということをなめてかかると、単純にちょっと滑稽なことになってしまうのだと思う。
 猫や花にケンカを売っているような風景になる。
 はて?なにをそんなにいきりたっているのやら。と。

 あなたが他のことをしている時間、その人たちは、ただ「そこに」ずっといるのだ。 その町の知識について、「競おうとしている」「いどもうとしている」その時点で、その人はその町の住人ではない。
 知識はどこまでいっても「存在」に勝つことはできない。
「存在」は勝負をしようとしてはいないからだ。

 なめている方の人が、心の中の勝負をいっしょうけんめいひとりで世界に向かって叫んでいるようなことになってしまう。
 「私は心の中でこんなに競争をしています!!」
 猫も花もそれには答えようがない。
 (私はここにこうしているだけです。)とさえも、言わないだろう。
 いうことができない。生活というのはある意味そのくらいなんというか普通のことだ。

 それをすることが普通の生活になっている、そういう人が、まぁ「プロ」なのかな、と思う。静けさがない人はまだただあこがれている人だ。悪口ではなくて、だれでも生活は地味なものなのだ。だからそれはしかたのないことだ。それをしてきた人はしてきた人だ。
 そういう意味では、そこに「ない」競争にあこがれていられることの方が、ある意味「遠くが」とてもキラキラ輝いて見えていられるからすてきなのかもなぁ、、と皮肉半分で思ってしまうこともある。
 でも笑っていられる問題でもない。「競争」のイメージを作りだすのはたいてい外側のほんとにはその町には住んでいない人間だ。ほんとはどこでも生活に根ざしたものに本質的な競争はない。それは教育現場でもほんとうにそうだと思う。競争を教えこむことは本人の能力を閉ざすもっとも有効な手段だ。
 競争を教え込むことで、かえって実際には「ない」競争を心の中につくりだし、その瞬間に自分から妄想に負けにいくことになる。悲しい話だ。
 こういうことをいうと、いや実際に競争はある!という人もいるが、実際にある競争については、ことさらに教える必要などないのだ。それは体験すべきことであって教えるべきことではない。しかしこういう理屈がわからない人もたくさんいる。
 だから、あなたはもっとすごい場所で活躍できるのに、とか、もっとすごいところにいっていいのに、、というようなことを言われるときにもよくとまどってしまうし、ある意味本能的に少し警戒する。あきらかにただ無邪気にほめてくれている場合もあるが、そうでない場合も多々あるからだ。

 やっぱりその町を愛している人(というと大げさかもしれない)、その町で暮らしている人、というのはぜったいにその町の一部に関する知識を競争の手段にしたりはしないものだ(おもしろがって遊ぶことはあるかもしれないが)。
 人に何かで挑もうとする人は、それをほんとうには愛していないのだな、と思う。
 その人にとっての一部分のことでしかないからこそそういう「手段」にできるのだ。

 住むこと、生活すること、は、戦うことではないのだ。

 2017.8.9.