あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

やりたいことはひとりでやれ。森脇真末味。

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いろんなバンドをやったりしていて、よく思うのは、「もともとそれを誰がやりたかったか」ということをある程度はっきりさせておくのは大事なことだな、ということだ。

いろんなアイデアが出てくる、それをいっしょにやる、それは最初のうちはいいのだが、それぞれが誰がやりたかったことか、というのは僕は確認しておくようにしている。

 あるバンドで、いろいろ言い合いが多くなったので、「じゃあ、もうプロデューサー制にして、今回のライブは全部この人がしきる、次のライブはこの人がしきる、ってしてみよう」とやってみたら、すごくうまくいったことがあった。
今回のライブの曲目やどんな練習をするかをしきるのはこの人、と決まってしまうと、その人も緊張感が出るし、その指示を聞く方の人も、それに答える、という役割をあたえられることで集中できる。その上で、自分の意見もいっていくこともできる。
 何がよかったのかな、と考えると、要は、「責任を誰がもつか」を決めるのが意外と大事だ、ということなんだと思う。
 この、「責任を誰がもつか」を便宜上決めて、それで行こう!とする、というのが、日本人は苦手なのかもしれないなぁ、と思うことがある。
 日本人は、、なんてくくりかたは陳腐すぎてよくないのだが、それでもどうしてもそう思ってしまうところがあった。

 でも最近若い世代の人とバンドをやっていると、そのへんが、さくさくっと楽に進むことが多く、とてもさわやかな思いをしている。
 これはあなたの責任で「いきましょう」
というさわやかな分担ができるのはすごくいいことだと思う。

 この「いきましょう」という「とりあえず」の感覚がないと、なかなか難しい。
 「これはあんたの責任や!!」みたいな言い方になると一気に昭和、という感じになる(笑)
 なすりあい・・・笑

 そういうことではなくて、一応いいだしっぺが責任をとる、ということで進めましょうよ、ぐらいのことができたらもっといろんなことがうまくいくのになぁ。

 人はやっぱりいろんな夢を見るのだが、意外とすぐ近くにいる人(たとえば夫婦とか)どうしでも意外とほんとうは夢の見方が最初から違っていたりする。でも最初はそれに気づかないものだ。
 同じ夢を見ている、とある意味錯覚できる時間というのは割合とすぐ過ぎ去るものだ。そのことを僕は経験的に覚えた。バンドっていうのはそういうことのくりかえし、という感じがする。
もちろんそれが20年、30年といっしょに続けられることはすごく幸せなことだ。でも正直言ってものすごく稀なことだ。

 なので、僕は、最初のうちから、「誰がやりたいと思って、誰の仕事としてはじめたことか」、というのを随時それとなく毎度毎度確認しあうように気をつけている。
でないと、変な誤解が生まれたりするからだ。
 でもそれをはっきり「一応あなたがはじめるのですから、一応責任者はあなたということで、、」ということまで言わないとわかってもらえないことが多くなかなかしんどい。察しのいい人は、最初から、「あ、それは僕がいいだしたことだから、やるわ」となるんだけど、なかなかそういう場合ばかりでもないようだ。

自分自身も、やりたいことは基本的にはひとりでやらないといけない。とよく思い出す。

口に出してみたら至極あたりまえのことなんだが、意外とそれができてない大人が多い気がする。
そういうところには必ずいざこざが起こる。自分も気をつけなくてはいけない。



「ほんとうにやりたいことは、ひとりでやるんだ。」
若いころ姉がよんでいた、森脇真末味という少女マンガの中に出てきたセリフだ。(だったと思う。)おんなのこ物語、というバンドマンについて書いた漫画だった。

 森脇真末味は、とてもアーティスティックな漫画家だった。ぼくは姉の本棚から拝借してはいくつかの彼女の漫画をよんだ。

  すごく普通のセリフだけど、たしかドラマーがそのバンドを離れるときにリーダーのボーカルから言われるセリフだったかな、と思う。

「見ているのは自分一人だ」
というセリフもあったっけ。それは「愛することができるのは自分の方だ」というような意味だ。
人の期待に答えるのではない、自分が自分の世界の中で人を愛し、自分の世界ですべき仕事をする。それはある意味孤独な営みだ。

 もちろん、すべてが一人、というわけではない。
 でも、ひとりでもやるんだ、という覚悟がないことはやらないほうがいい。と思う。
 やらないことの被害より、覚悟なくいろんなことをやることの被害の方が大きい。
 日本の政治なんかそういう固まりに見える。

 助けてもらったり、助けたり、それはもちろん美しいことなのだけれど、最後はやはり一人でもやるか、やらないか、だ。
 そういう覚悟はひとりひとりがもっていないと揉め事になる。
 そんな風に思うことが多い。

 もちろん、もっと深いところでは、人と人との区別はそんなにはっきりと分けられるものではない、という事実もあるにはある。
 エネルギーとしてはそうだ。
 本当はもちろんすべてがつながっている。
 しかし、同時に、ひとりである、という考え方も大事なことだ。となぜか思ってしまう。
なんでだろう。。

たぶん、
どうしても、あなたは、◯◯◯、、
と言いたくなるなら、
まずは自分が、、

と考えるほうがさわやかだ。というくらいのことなんだろう。

ほんとうの深いところで物理的に起きていることは、あなた、自分、のどちらでもないんだろうが、なかなかそういう視点にたつのは難しい。なので、便宜上まずは、「自分はなにをするか」を中心に考えるのが一番争いを生まないのかな、とそんなことなんだろう。

2017.10.9.