あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

いっしょうけんめいはいらない

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いっしょうけんめいやってるから、、
という言葉がまるで、すべてをこえる、「おまじない」のように使われる。
ぼくはそれにとても大きく疑問を感じる。

いっしょうけんめいはいらない
なかなかこれは言うのに勇気を必要とする発言だ。
「いっしょうけんめいが悪いっていうのか!そんなことあるわけないだろう」という声がいまにも聞こえてきそうだ。

もちろん、いっしょうけんめい、はとてもすてきなことだ。
ただ、それが
「本人の無邪気さに基づいている限りは」
と僕は思う。見返りを求めない無邪気ないっしょうけんめいはステキだと思う。

しかし、一番ティピカルな例としては
 高度経済成長期に、「いっしょうけんめい」の目標を外から与えられていた親が、定年後時代がかわり、会社もうまくいかなくなって、自分のこどもたちにその「いっしょうけんめい」を向けたことによって、こどもが病気になる、というパターンだ。
親が本当にこどもに対して感じる熱い気持ちから「何かをやってあげたい」
そこまではよいと思う。
でもそこに「役割」を欲している自分がいたら要注意だ、と思う。
いっしょうけんめいなにかに向かうことのできる「役割」。会社で与えられていたようなそういう役割はもう「ない」のだということを認識せずに、他でそういう役割を求めて無理やり作っている大人がすごく多いように見える。
結局のところ、そのいっしょうけんめいは、こどもを破壊することになる。

他の例としては、最近、定年退職した団塊の世代が、いろんなところの町内で「なんらかの役割」を求めて、競争しあうという話をよく聞く。すでにない「役割」を求めてなにかそういう状況を作ろうとする。それは、ほんとうの「いっしょうけんめい」とはちょっと違うのではないか。いっしょうけんめいが、自然な町内のありかたを破壊する。

いろんなところで、いらないいっしょうけんめいがいろんなものを破壊している。

こどもに対する気持ちでもそうだが、違いを見抜く一点は
「見返りを期待してるかどうか」
「相手に同調してほしいと思ってるかどうか」

だと思う。

 ほんとうに純粋な気持ちの「いっしょうけんめい」は、それを自分の喜びとしてやっているから、なにか見返りを期待することはない。大体において他人に気づいてもらうことすら必要としないだろう。

 しかし、どこかで自分のいっしょうけんめいになれる「役割」がほしいと思ってやっている人は、そのうちに必ず、まわりに「なにか」を求めだすことになる。

 

ひとりでやれよ、と言いたい。

 そこに何がぬけているか、というと、他人のためになにかをすることのできる「役割」ばかりを求めていて、「自分自身を幸せにする」ということが抜けている、
自分とちゃんと向かい合ったことがない人の場合がほとんどだ。

人の役にたつこと、人に認められること、それだけによって生きてしまった人。
それはとても素晴らしいことではあるが、残念ながら、今の世の中は、人もものも増えすぎてしまった。
今の世の中で一番大切なことは、いっしょうけんめい、より
「ものや人を傷つけないことだ」
と思う。

たべものもない、人も少ない、そんなところで走り回っている人はすごく役にたつ人だ。
しかし人も多い、ものも多い、そんな部屋で走り回ろうとしたら、必ず誰かがけがをする。
意外とすごく単純なことなんじゃないんだろうか。

仲良くやろうよ
そっちの方がよっぽど大事なのだ。今は。

もう地球はそういう方に向かっているのだ。
ばたばたあばれまわらないで、「楽しく」できるためにはどうすればよいか、をちゃんと考えなくてはいけない。

そのためにも、まずは「自分が何をしてたら一番楽しいのか」に気づかなくてはいけない。

 それを常に人との関係に求めていたら、それは実は常になにかを壊していることになってしまう。特に、「よい未来をいっしょうけんめい作ろう」というゲームに人をつきあわせたいという欲望は一番危険だ。

未来よりまず「現在を遊ぶ」ことのほうが今は大事なのだ。

そして、まずは、現在の自分と遊んであげられること、がものすごく重要なのだ。

 ひとりで現在と遊べない人は、人とも遊べないし、実は、未来とも遊べない。
 そして、永遠に、がんばる、ことになり、そこには気づかない上に人と人との上下が生まれていくのだ。(そんなしんどいことはたぶん上下関係なしにはなりたたないのだろう)いずれにせよ破壊的なエネルギーだ。
不思議とそういうふうになっているのだ。
どうしてだか、無邪気でなく、「がんばる」人は、どこかで、誰が誰よりがんばっているかということを気にしている。そのうちにそれをまわりに求めだす。
そういうのは、無邪気にいっしょうけんめいというのとはまるで違うと思う。


しかし、もちろん、そういう「がんばる!」というタイプのゲームが好き、という割り切りがあればとてもよいと思う。
スポーツだってなんだって、「そういう戦いが好き!」という人どうしでやってる分にはなにも問題はない。でもスポーツの中と実社会を混同してもらっては困る。
いろんな人がいるのがこの世の中だ。

こどもにいっしょうけんめいになりすぎる向上心あふれる親は、ちゃんとスポーツでもしたらよいんでないか。

2017.10.9.