ふつうに遊ぶこと
今日は久しぶりに小学校の音楽ワークショップに行った。
あらためて思う事。
ふつうに遊ぶこと。というのを中心に置いている、ワークショップをする人、コーディネーターの人、ファシリテーターの人、そういう人たちと、もっと知り合ったり活動したりしてみたい、と切に思った。
おもろいね!ということをすぐしちゃうのは好きだ
が、
おもしろいということをいちいち発信するのはきらいだ。
めんどくさい。し、うそくさい。
遊ぼう!ということ「すら」も、あろうことか、なんだか素敵な方向性をもって、「良い価値観」として語られてしまう今日、「ふつうに遊ぶ」、ということの中には、「退屈」とか「停滞」とか「月並み」とかそういうことが飽きる程入っているということをふまえていてそれに対する忍耐がある人がいてほしいし、一緒に何かしてみたい!と思う。
結局のところ忍耐なのではないか、と思う。
忍耐それ自体というより、「忍耐する」というくだらなさやばかばかしさを自認していること、というか。忍耐って言ってしまうとなんだかおおげさかもしれない。もっとふつうに、「別にうまくいくことばかりじゃない」ということをふつうに受け止めることというか。
そういうのは実はとても必要なことだと思う。
「とがっていたい」のは自由だし、たしかにおもしろいことだけど、それを価値としてあまり発信しすぎないでほしい。と願ってしまう。軽すぎるし、特に、そんなものを「身体性」として語っていたりするのはとても変な気がする。
身体はそれほど、つまり、語るほど素早いものでもないし、確実なものでもないと思うからだ。
語るほどには素早くない。でも語らなければまた別。結局そういうことだと思うし、それがわかってるから(そういう者として)アーティストとして現場に呼ばれているのではないのか?
アーティスト同士の会話とか、アーティスト同士の暗黙の了解ならともかく。(それはもちろん存分にしたいところだけど 笑)
知的な探検も大事だけど、だからといってすぐにできないことは、すぐにはできない。というか、できるとはかぎらない。それが一番よく知っている事。
そういう意味では身体性を言葉や頭で語るというのは一番ある意味アーティストがほんとはよくよくわかっている、自認している自己撞着的な、幻想的な行為と思う。
それぞれ自分の中ではありだし、日々の探求の楽しみかもしれないけれど、それは少なくとも別に子供に今日伝えるべきことではないと思う。
それ自体を語ることはもとより、それを意識しているような行為も、子供の前で見せたくない。
もちろんそういう中に「大人向けエンターテイメント」みたいなものはありうるし可能なだけれど、こどもとの現場はもっと生な無骨なことであってほしいと思う。時間がかかってもよいから。
アーティストの日々の「工夫と努力」を伝えました、みたいなのは最悪だと思う。そのために出会ってるのではないと思う。そういうのは先生に?(がいるのならば)お伝え(お供え?)したい(笑)
そういう意味では今日のワークショップは腑に落ちるところがあるよいワークショップだった。
不器用な伝え方というのは、やはりそれなりにいいことだと思う。
慌てない事。
結局のところ、「退屈を発見する目線」がもっとふつうに、ちまたに存在していほしい、とよく思う。
とかくきれいなものや、立派なもの、てっとりばやくわかりやすいものが好きなのだ。
焦っている大人は。