品のなさ
最近、Facebook などで、ある考え方の人たちを悪くいう投稿をよく見かける。
悪し様に言う、というか。
とくに「自分は知識がある、常識がある」と自認している人たちが、知識がない人たちを悪くいうツイートを見かけては、なんか残念な気持ちになる。とても不快であるし、なんでそこまで言わなければならないんだろう?と不思議な気持ちになる。
品や、人間的気位の高さというものは、一般的な「学歴」というようなものとはまったく関係がないのだな、とつくづく思う。
世の中に間違っているものもたくさんあるには違いないだろう。
しかし、かといって100%の真実というものが誰かにわかっているというわけでもない。
品のなさ、というのは「人を悪くいう」ということがそうなのではなく、「不確実なものに耐えられない弱さ」が根底にあるのだな、と思う。自分もすべてのことはわからないという不安定さに耐えられず、なにかをはっきり言って誰かをののしらないとやっていけない弱さやもろさ。「私はわかっている」というのはあまり美しい表現とは思えないし、そういう発言をする方の表現やアートにあまり触れたいとも思わない。底が透けている。
ほんとうに品のあるものや、プライドが感じられるものというのは、「私にすべてはわからない」という謙虚さや、不確実性に耐えられる芯の強さがあるものではないかと思う。
一方、わからないことが多い世の中で、それをわかった上で凛として生きている人もたくさんいる。美しさはそういうところにあると思う。
たとえば、京都に来てから、京都で出会う方々のそういう意味での「芯の強さ」や「プライドの高さ」にはとても敬服しているし、とても美しいと思っていた。
京都といってもいろいろではあるのだろうが。