あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

自分のためのメモ。練習。自分の体ではないということ。

これは「自分の体ではない」もしくは「自分ではない」ということがわかるのに思ったよりも時間がかかる。

楽器の練習というのはそういうことなんだろう。

 

なるほど、人(楽器)の体であった、ということがわかるまでは、その楽器と仲良くもできなければ、お別れもできない。その点、男女のつきあいや、もしくは、自分の体とのつきあいともよく似ている、と思う。

突然、日記風。鈴滝レコーディング。ステリオMix@246スタジオ。タイミング。

鈴滝レコーディングの最終段階。テイク決めはいつも難しいけれど、テイクが変わるだけでストーリーががらっと変わる。ボーカルを中心に人は音を聞くからバックのトラックもがらりと変わったグルーブに感じる。

LogicとCubaseの音の違いも目の当たりにしてあらためて驚く。

そして各々のスピーカーの違い。

 

夜は「ステリオ」Mix@246スタジオ。

功刀さんのバイオリンの細部のコントロールにあらためて舌を巻く。

あらためて自分の演奏はゆるいなぁ、と実感。
バイオリンを聞いていると、Seaboard欲しいなぁと思う。どこかで触ってみる機会はないものか。。

 

ジェリー?ビーンス?。。。という店に連れて行ってもらった。

そこで、MacCubaseWindowsCubaseの音の違いについての話を聞く。

家に帰ると夢吉とチャルがものすごく餌をねだっている。。。のか、甘えたがっているのか、どちらかわからない。

考えると、二人とももうとても年寄りなのだった。



 

一緒に踊ってください。

子供のころ父親が、「どうして日本ではこどもから大人まで一緒に踊れる音楽がなくなっちゃったんだろうな」とつぶやいた。それがずっと忘れられない。

高校のころディスコに(クラブはまだなかった。。)はまってからずっとダンスミュージックが好きだ。ファンク、ハウス、レゲエ、ブルース、いろんな音楽にはまったし、ずっと人を踊らせる音楽をやってきたけど、いつもその父親の言葉が忘れられなかった。

KPMの廣瀬さんと永田さんと一時期週2、3回集まっては音頭朝練というのをやっていた。ひたすら「自分が思う」音頭のビートを演奏し続ける、という朝練。ぼくの企画力のなさで練習だけで終わってしまった。

しかし時を経てまた今、京都で江州音頭のバンドに参加することができている。地下に潜っているものはいつか地上に顔を出したり、またもぐったりするのだな、とあらためて思った。
廣瀬さん、永田さんと体にしみ込ませたものがまた体から出ているのを感じています。廣瀬さん、永田さん、本当にありがとう。

8/16(ゼスト御池)、8/29(吉田本町)、9/20ゼスト御池、9/21ゼスト御池、音頭バンド「サンポーヨシ」で出演します。


みなさま踊りに来てください。体に昔からずっと眠っているリズムがあって、それ自体もやはり、地上に顔を出さずともずっとそこにじっといるのです。ぼくもそれを思い出しあらわにするために演奏しています。

表面に出ていない物が一番大事なんだと思う。でもたまには、それに顔を出させることもすごく大事なんだと思う。

ぜひ来てください。一緒に踊ってください。

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屈服しないのは誰だろう?

屈服しない人 と     演技過剰な人

 

屈服する。少しずつ屈服していく。

政治にでなく、人生にでなく、お金にでなく、権力にでなく

立派な言葉に。

立派と感じるなにものかに。
自分が信じること

ちょっとしたことで「正しい」と思っちゃったことに屈服していく。

なにげないひとことから、そうなんだな(きっと、、、)と思い込む。

 

屈服しないのは誰だろう?


?どうして?
わからん

そこまではわからん

それは知らん
と言える人。


そんな人がまわりに(多くはないかもしれないが)たくさんいることに本当に感謝する。ほんとうに好きだなぁ。

 

あほだなぁ、と、好きだなぁ

は似てる。

愛してる、とかじゃない。そんなんじゃない。

 

「そういうんじゃないんです。

そんな立派なのじゃないんですよ。すんませんねぇ。」

 

好きだなぁ、笑えるなぁ、あほだなぁ。

それは、理屈や言葉で説明できないこと。


だっていやなんだもん。

それだけのこと。

批判したり相手のよくないところを見つけることの罠。

すぐに批判したくなる。

相手のよくないところをよくないと決めつけたがる。

それは簡単におこることだ。

それは一口に言うと、相手をみくびるという行為だし
大概そういうときには、きちんと自分が立てていないことが多い。
客観的に観察すると、自分の立ち方が歪んでいるということが多い。だらっと立っている、もしくは、力んでいる。
相手を、そして自然を、見くびって立っているということだ。

相手を本当に信頼するということは
自分の明るさや力の抜けた立ち方をくずさずに
相手とコミュニケーションができ、しかも二人で良い方に向かえるという
絶対の自信も持てているということだ。

それはあまり工夫することではない。もともとある力だ。

そういう自信のある人は、力んでいない。
本来ある力

それは自然な立ち方からしかやってこない。

言葉や指先、目の操作からは
そういうものとは逆の、批判とか弱点探しとか、そういうことばかりが生まれる傾向にある。

そういえば、
「大人になって怒られたくないよね」と言って笑っていた友達がいたが
すごくよいことを言うと思った。
よく思い出す。そのセリフを。
つまり、相手が何をしたか、ではなく、
相手はどう思ってるか、を考えることができるということ。
誰しも怒られたくなんかない。
つまり、相手も調子の悪いときもあれば忘れるときもある。
そりゃそうだけれど、きっと話せばわかる。
というより
<話さずに伝えられる>
そう思えるとしたら、それはどこから来るのだろうか、

ということ。

一緒にずっとなにかやっていける、と思っているかどうか。
それは基本的信頼の問題で、ことがらとは関係がない。
でもだからこそ、はっきり伝えるべきときは
怒るのでなく、もう相手がうごくようにちゃんと接触する。
そこに暗さはみじんもない。むしろ笑ってしまうような事実だけがそこにある。
その気持ち、というより、動きはすぐに相手に伝わる。


それができる人は簡単にいらだちを人にぶつけたりはしない。

とっかえひっかえ相手に信頼を失う人は
次々に新しい夢を作り続けるだろうが、永遠に信頼にはたどりつかない。
それは1人で見ている夢にすぎないからだ。

そういうことを、合気道や整体から学ぶ。
人間の立ち方やうごき方というのは本当に基本的な大事なことを含んでいる。