あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

今日のドレミファソラシド

Momocafe Magazine のホームページに、「今日のドレミファソラシド」というコーナーがあり、演奏を提供しました。
いろんなミュージシャンがドレミファソラシドを演奏する、という企画。これからもどんなドレミファソラシドが聴けるのか、楽しみですね。

MOMOcafe magazine Thank you & I love you

自分のためのメモ。

自分のためのメモ。確信が持てるかどうか。負けること。

 

確信が持てないことを認めない=つまり、私にはわからない

としておくというのは、自分のためで(も)ある。つまりほとんどのことにおいては、「わからない」がまず第一である、
そして、控えめにいっても「立場上<戦い>には負けておく」のがもっとも素直で、賢く、しかも「強い」やり方である。
立場上の戦いはほんとうの戦いではないからだ。

 

もちろん、強いというのは誰かを倒すことではない。

 

確信が持てていることはなにか。

 

本当に確信が持てているかどうか自分が自分のために(も)わかる(気づく、思い出す)ためには、自分の中の偏見にひとつひとつ気づく必要がある。
偏見はただの遠回りだからだ。

ひまつぶしと言ってもいい。

まずはそのまま、負けるままに「自然に、負ける」ことだ。
なぜなら、私は最初から勝つほどのものをもともと持っていないからだ。それに逆らわないこと。

でないと、なににも気づけない。どこへも行けない。

 

そしてこんなことは、もともと誰しも知っている、ある意味くだらないといってもよいくらいあたりまえのことだ。
メモをしているのも恥ずかしいことをメモしている。

単に、ここのところのしばらくの間(短期間の間、それが何十年なのか、何秒なのかに関わらず)忘れている人が多い、もしくは自分が忘れていた、ということにすぎないのかもしれない。

そしてそうでもないのかもしれない。

そして、いろんなことが、あっという間に思い出せる。

たとえば、音楽をよく知らない人が、ビートルズの記事をシェアしたら、、

たとえば、音楽をよく知らない人が、ビートルズの記事をシェアしたら、、

それに対して

「あんたは、その記事をシェアしたんだから、ビートルズ派として責任を持てよ」といういう音楽業界の人っていうのはなかなかいないのではないか、と思う。

音楽をやっている人っていうのは、たとえば、レゲエというジャンルの中であっても、ジャズというジャンルの中であっても

「ああであってはいかん」とか

「あれこそが間違っている」とか

真剣になればなるほど、そういう思いはあるわけで、だけど、音楽をよく知らない人が、自分がやってるジャンルの中の誰かをほめた記事を載せたからといってそれをやっきになって責める人っていうのはまずいない。

 

そういう意味で、考えるに、政治的な記事を一般の人が載せたときに

やっきになって

「おまえがその記事を載せたということは、そちらの意見を広めてるのだから責任をもて」みたいなことをいう人っていったいどういう業界の人なのだろう、と思ってしまう。
まずもって、たぶん政治にはほど遠い人なのだろうな。
しかもずいぶんひまな。

アーティストの人がFacebookとかで政治的に攻撃してるのとかも見かけるけど、ある意味勇気あるなぁとも思うけど、同時にだいじょうぶかな?と思ってしまう。

 もちろん普段から真剣にほんとうにそういう活動をしているアーティストはもちろんリスペクトだし、そういう人の意見の書き方とかシェアの仕方は一貫してるし淡々としていて攻撃的ではなくむしろ地道な感じがするからまったく気にならないのだけど、ふだん自分が政治的な表現活動してるわけでもない人が、家に帰ってから?なのか、すごく攻撃的な記事を載せてるのを見ると、だいじょうぶ?と思ってしまう。


どういう意図?もしくはストレス?なのだろうか。

白黒はっきりさせないところを育てる表現の仕事をしてるのではないのだろうか。

うーん、一回じっくり話を聞く機会があったら聞いてみたい。

攻撃されるというのはされた方にとってはなかなか大変だからなぁ。。

細かいところ

今日いろんなできごとがあって

共通してるなぁ、と思ったことがある。

 

細かいところ

ほとんどなにかのてざわりとか、質感としてしか表現できないようなところ

そういうところにじっくりこだわって誰かといっしょに物を作るためには

それとは真逆な、

一見どうでもよいような、

言葉を使った細かく退屈な長い打ち合わせが必要になる

っていうことがあるのかもな。。

ということだ。

 

いろんな経験の上で

そこがちゃんとわかっていて

忍耐強く、いろんなことを話し合いつつ取り組める人と仕事がしたいなぁ、と思った。

 

そうでないなら、

全部OK

にするしかない。と思う。

そういうのはそれでまたいいと思う。

 

やっぱり人はみんな違うし

物事はすごく細かいことでどんどん変わる

ってことがわかっている人と仕事がしたい。

 

そこをはしょって

フィーリングで通じ合っていけるでしょ!

っていうのは、ある意味ではほんとだろうけど

それは同時に、

ある意味、

とてもはかなくて美しい夢。

そして、それはとても残酷にもなりうるっていうことを

わかっているべきな気がする。

もっと元気に戦いたい!

という気持ちももちろん悪くはないし

ある程度必要なのかもしれないけれど

たとえば

レベルソウルであったり、

暴力に反対したりピースをうたいながら

それをするのは

きっとどこか違うのかな、と思う。

 

ぼくはもうそういうのはいい。

音楽の生まれるところ

「音楽の生まれるところ」

 

音楽の生まれるところは、かなり奥の方にある。

どこの奥だろうか。気持ちの奥の方という感じだろうか。

 

守る必要のないところというのがあって、そこから音楽は生まれる。

でもそれはずいぶん奥の方にあるから

手前の方でいろんな工夫をしたり、

四苦八苦したり、

もうだめだ、と思ったり

そういう風に、守る必要があるものを探して、いろんなことをしていると、

なんだか手前の風景がごちゃごちゃして、向こう側にあるものは

ちょっと見えにくくなるけれども、

それはただそれだけのこと。

その間も、奥の方にある背景は実はまったく何も変わっていない。

どしっとして、

というか

ぼーっとして、

というか

そこにただいる、そういうもの。

 

ずっと何も変わっていない。

そういう場所から音楽が生まれる。

品のなさ

最近、Facebook などで、ある考え方の人たちを悪くいう投稿をよく見かける。

悪し様に言う、というか。

とくに「自分は知識がある、常識がある」と自認している人たちが、知識がない人たちを悪くいうツイートを見かけては、なんか残念な気持ちになる。とても不快であるし、なんでそこまで言わなければならないんだろう?と不思議な気持ちになる。

品や、人間的気位の高さというものは、一般的な「学歴」というようなものとはまったく関係がないのだな、とつくづく思う。

 

世の中に間違っているものもたくさんあるには違いないだろう。

しかし、かといって100%の真実というものが誰かにわかっているというわけでもない。

 

品のなさ、というのは「人を悪くいう」ということがそうなのではなく、「不確実なものに耐えられない弱さ」が根底にあるのだな、と思う。自分もすべてのことはわからないという不安定さに耐えられず、なにかをはっきり言って誰かをののしらないとやっていけない弱さやもろさ。「私はわかっている」というのはあまり美しい表現とは思えないし、そういう発言をする方の表現やアートにあまり触れたいとも思わない。底が透けている。

 

ほんとうに品のあるものや、プライドが感じられるものというのは、「私にすべてはわからない」という謙虚さや、不確実性に耐えられる芯の強さがあるものではないかと思う。

 

一方、わからないことが多い世の中で、それをわかった上で凛として生きている人もたくさんいる。美しさはそういうところにあると思う。

たとえば、京都に来てから、京都で出会う方々のそういう意味での「芯の強さ」や「プライドの高さ」にはとても敬服しているし、とても美しいと思っていた。

京都といってもいろいろではあるのだろうが。

ふつうに遊ぶこと

今日は久しぶりに小学校の音楽ワークショップに行った。

 

あらためて思う事。

 

ふつうに遊ぶこと。というのを中心に置いている、ワークショップをする人、コーディネーターの人、ファシリテーターの人、そういう人たちと、もっと知り合ったり活動したりしてみたい、と切に思った。

 

おもろいね!ということをすぐしちゃうのは好きだ

が、

おもしろいということをいちいち発信するのはきらいだ。

めんどくさい。し、うそくさい。

 

遊ぼう!ということ「すら」も、あろうことか、なんだか素敵な方向性をもって、「良い価値観」として語られてしまう今日、「ふつうに遊ぶ」、ということの中には、「退屈」とか「停滞」とか「月並み」とかそういうことが飽きる程入っているということをふまえていてそれに対する忍耐がある人がいてほしいし、一緒に何かしてみたい!と思う。

 

結局のところ忍耐なのではないか、と思う。

忍耐それ自体というより、「忍耐する」というくだらなさやばかばかしさを自認していること、というか。忍耐って言ってしまうとなんだかおおげさかもしれない。もっとふつうに、「別にうまくいくことばかりじゃない」ということをふつうに受け止めることというか。

 

そういうのは実はとても必要なことだと思う。

 

「とがっていたい」のは自由だし、たしかにおもしろいことだけど、それを価値としてあまり発信しすぎないでほしい。と願ってしまう。軽すぎるし、特に、そんなものを「身体性」として語っていたりするのはとても変な気がする。

身体はそれほど、つまり、語るほど素早いものでもないし、確実なものでもないと思うからだ。

 

語るほどには素早くない。でも語らなければまた別。結局そういうことだと思うし、それがわかってるから(そういう者として)アーティストとして現場に呼ばれているのではないのか?

アーティスト同士の会話とか、アーティスト同士の暗黙の了解ならともかく。(それはもちろん存分にしたいところだけど 笑)

 

知的な探検も大事だけど、だからといってすぐにできないことは、すぐにはできない。というか、できるとはかぎらない。それが一番よく知っている事。

 

そういう意味では身体性を言葉や頭で語るというのは一番ある意味アーティストがほんとはよくよくわかっている、自認している自己撞着的な、幻想的な行為と思う。

それぞれ自分の中ではありだし、日々の探求の楽しみかもしれないけれど、それは少なくとも別に子供に今日伝えるべきことではないと思う。

それ自体を語ることはもとより、それを意識しているような行為も、子供の前で見せたくない。

もちろんそういう中に「大人向けエンターテイメント」みたいなものはありうるし可能なだけれど、こどもとの現場はもっと生な無骨なことであってほしいと思う。時間がかかってもよいから。

アーティストの日々の「工夫と努力」を伝えました、みたいなのは最悪だと思う。そのために出会ってるのではないと思う。そういうのは先生に?(がいるのならば)お伝え(お供え?)したい(笑)

 

そういう意味では今日のワークショップは腑に落ちるところがあるよいワークショップだった。

不器用な伝え方というのは、やはりそれなりにいいことだと思う。

 

慌てない事。

結局のところ、「退屈を発見する目線」がもっとふつうに、ちまたに存在していほしい、とよく思う。

 

とかくきれいなものや、立派なもの、てっとりばやくわかりやすいものが好きなのだ。

焦っている大人は。