Space
スペース、という言葉が好きだ。
なにかと、なにかの間、という意味でもあるし、
なにかが生まれる場所、という意味でもある。
Homegrownでも活躍しているSEIJImanとの音源制作ユニットの名前も「スペースワークス」だ。
ホームページの、「いろんな場所を作る活動」の見出しも「Space」にした。
スペースというのは、いってしまうと、実は「なにも無い場所」だったりする。
なにかとなにかの間の、なにもない空間。
意味がなく、空いている空間。
それがなくては、まともに生きるなんて誰にとっても無理なことなのだ。
おもしろい!
うーむ、おもしろい、おもしろいぞ!
真ん中は空っぽだ!
もっともだ!
もっともなことを言って楽しいのか!?
あたりさわりがない
今日は今年に入って2回目の音楽広場であった。
プチ・ポワールさんが、今日もギターとアコーディオンの音色を広場に響かせてくれた。
終わってお話をしていて、
「プチ・ポワールさんは、すごくいろんなバンドや歌い手さんから、対バン(ライブで一緒に出演するバンド)として喜ばれるんじゃないかなぁ、、と思うんですよ」というようなことを僕が言った。
アコーディオンの秦さんに、「なんか、あれですよね、僕らなんかあたりさわりない感じですもんね」と言われて、
その時、ぼくは「いや、そういう意味じゃなくて!」と言って、プチ・ポワールさんがいかに「ただ、あたりさわりがない」のでなく、いかに魅力があるかを説明したのだった。
が、同時に僕の頭の中ではなんだかすごく別のこと(?)がおこっていた。
つまり、「そうそう、あたりさわりないってことがほんとにすごいことなんですよね!」と言っている自分がいた。(が、そのへんはうまく言えなかった。)
言葉は難しい。あたりさわりないっていうのはほんとにすごいことなのだが、なかなかそれをうまく言うのは難しい。
今日はフォレストの妹尾さんとも広場の行く末についていろいろ語り合ったのだが、そこにもなにか共通点のようなものがあった。うまくひとことでは言えないのだが、「主役のいない世界」といったらいいのだろうか?
もちろんその瞬間瞬間は主役に見える人がいるのだけれど。
情報は、言葉になったとたんに結局のところどんなものでもグルーピングをうんだり階層を生んだりする。
そして、一見そうでないように見えるものが、実は結構無意識のところで(もしくは意識的に)そういうことを上手に利用したりしていたりする。
最近、「アート」って言われるものについてとても疑り深くなってしまっている自分はそういうところにいつも敏感になっている。昔からのくせかもしれない。が、最近やっぱりさらにそうである。
そして下手すると「うえ〜!反吐が出る!」というよくない表現をしてしまいそうな気分になったりする(笑)「反吐が出る」というのは、汚い表現だが、ぼくの中では「同じことばかりで退屈な状態」だ。汚いものとかよりもっとひどい状態のこと。
うまく言えないが、どこかでだれもが(もしくは何かが)主役になりたがってしまう、そういう可能性がある。言葉は価値が大好きなのだ。それは人間の性格とかではなく、ある避けられない機能なんだと思う。
そして、そういうのにあきている。常に。
でも逆にそういうのがわかった上で何かをしようとしている人とは、とても話が簡単だ。らくちんな感じ。
実は、ほんとうに、楽しいことっていうのはものすごく近くにあるんだと思う。
近く、というのもちょっと気どってる感じだよな(笑)
まぁ、こういう文章を書く事自体まったくもってとてもやぼなことなのだけど。
この、あたりまえの魔法2、は夜中の愚痴ブログ、、という感じです。
もっと工夫しろ
ここ数年のテーマは「工夫しないこと」。
でもしばらく前に、「工夫しないってどういうことですか?」とみんなの前で聞かれてうまく答えられなかった。
「じゃあ、レゲエは工夫してないんですか?」と聞かれて
もごもごもご、うまくいえなかったが、結局
「やっぱりレゲエも工夫だらけじゃないですか!」わっはっは
みたいな話で終わってしまった。
ちがーう!!
言葉に対する感じ方はほんとに人それぞれだから
うまく伝えるのはほんとに難しい。
しかしやはり今日もまた、「工夫しないこと」が大事だなぁ、と思った一日であった。
そりゃ工夫しなけりゃ生きられない、ということはありますが(いや、ありません!笑)
まぁいいか
やっぱり工夫するのも、もっちろん大事っすよね〜!!そりゃそうだ(。・_・。)ノ
うーん、これじゃ結局なーんにも言ってねーやヽ(`△´)/
工夫が足らんなぁ。。
寝よう。
おどっているっていうこと
おどるっていうことはけっこう(というか、かなり)必要なことだ。
おどるっていうと、音楽に会わせて踊ることやいわゆるダンスのことを言ってるのだろう、と思われるかもしれない。でもここで書こうとしてるのはそういうことではない。
なにかに「なる」とか、なにかを「どうかする」ということばかりが大事な基準であるかのように、よく(というか毎日)いろんなものごとが言われている。
でも、それ自体が問題の元凶だったりもするということだ。
それをこそぼくは言いたい。
もちろんそれは言葉で簡単に言えることではないのだけど(笑)
簡単に言えない、のではなく、そういうことは「言えない」、のだ、と言われたこともある。
大学のときに友達に
「みんなで言葉で話すなら、言葉で言えないことを言おうとするのはルール違反」
と言われた。
あははは。思い出すたびにぼくは1人で、うける。
いや、ほんと今でもうける。
でもそのときは笑えなかった。そのときにはそのからくりが見えなかったからだ。
そのときは単純にそう言われてぼくは何も言えなくなってしまった。ぼくは黙りこくりながらそのときに、「本当にそうだろうか?」と深く深く思ったのだ。ルール違反??
いやおもしろい。この言葉をぼくは死ぬまで忘れないだろう。
人から言われたことは、よくよく聞かないと本当の意味がわからない。こわいことだ。
そのときに
<なんでルール違反なんだろう?>とぼくは真に受けて考えてしまっていた。
そのときのぼくは
<ほんとうにルール違反なのだろうか?ルール違反ではないのではないか?>
と考えてしまっていた。
でも、ほんとうに起きていることは、単に
<その人が「ルール違反」と口に出して言っている>
ということだ。
なぜ?そう言うのか。言わなくてはならないのか。
だれかが「言葉でいえない世界」を「バカ」と思ってるかどうか、もしくは自分の言葉と違う人たちを「バカ」と思っていたりそれに近い発言をするかどうか、それを注意深く見ていれば本当にいろんなことがわかる。
いや、実におもしろい。
いまだに、「言葉で組み立てられない世界は、単なるオカルトである」ということを信じている人がたくさんいるということだ。無秩序になってしまうのが怖い人々。
その不思議なからくり。
いずれ、文章で(こういう理屈くさい抽象的な文章じゃなくて、もっと具体的に自分に起きた事をひとつひとつ)書いて行きたいと思う。
ともかく、僕自身にもいままでそういういろんなメッセージが当然のようにたくさんやってきた。いや、いまでもそれは常にやってくる。毎日のように。
それはいつも、「◯◯しないといけないよ。。」という「言葉」という形をとってやってくる。
ぼくだけでない。いろいろな人が、いろいろな人に、毎日
「◯◯しないといけないよ」と言われるわけだ。
そしてそれを言うときはその当人だれもが、
至極当然(しごくとうぜん)!
という顔になっているものだ。
そしてそれは身近な人に言われれば言われるほど、<そうかもしれない>という力強い拘束力を発揮する。
しかしその言っている<内容>ではなく、<そういう力>自体というのは、一体全体はたしてどこまで僕たち自身が「頼れる」類いのものだろうか?
ということだ。
ほんとうに深く深くそれに頼ってしまっていないだろうか?
おどる、っていうのはそういうのとはずいぶん違う。
違う類のやり方だ。
私もおどっているがあなたもおどっている。
大事なことは、おどってるときは、「一緒におどっているが」「無視もできる」ということだ。
無視しても、悪い感じはしないよ。だって踊ってるんだもの。
そしてそういうのをまとめて
「あなたたち踊ってるだけ」という人もいるかもしれない。
では、あなたは?笑
あはははは。
この文章で書いたような「おどる」ことではなく、もっと狭い意味で
「音楽に合わせておどる」とか「歌う」とか「演奏する」とかそういうのは、結局のところ、そういう扉を開くツールにもなる。
ツールなんて自分でいうとやはり笑ってしまうよね。でもこれでルール違反ではないでしょう?笑
ともかく、楽しいことに間違いはないのだ。
意味の陣取りが好きなあなた
意味の陣取りはまぁそれなりにおもろいのはわかるけど
なんだかちょっと古いんでないかなぁー
っていうかそれで盛り上がってるのはちょっとなぁ。。
もっと結構みんなよく見てると思うんだけどな。
細かいところ。
とっても心配なのだよね。君のことが。
たぶん僕が心配する必要なんかまったくないんだろうけどね。
もちろん。
それでも心配なんだからしょーがないな。