あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

自分だけが知っている。ボブ・マーリー。

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どんな人でも、自分を含めて、残念なことだな、と思うことがある。
残念といえば、残念だが、そこが人間のある意味かわいらしいところなのかもしれない。

どういうことかというと、どうしても人は「調子にのる」ということだ(笑)

でもそういうことがまったくない人をみるとほんとうにえらいなぁ、と尊敬する。
だいたいにおいて、とても地味な人の場合が多い。しかしそういう人はだいたいきちんと仕事をしている。


それとは逆に、
世界を救うような、もしくは、まわりのみんなをものすごく幸せにするようなことをいつも実際している(ように見える)本当にステキな人が、
ふと、その人の中に

「それを知っているのは自分だけだ。まわりはどうして気づかないんだろう?」

というような態度
もしくは
「まだまだ、気づいてない一般の人々」
がいる
という態度
そういう態度が生まれてしまっているのがみえるときがある。
そういうときに、その人の、真実がすこし透けてみえてしまうことがある。

基本的に
「まわりを救おう」
という気持ちの一番根底に存在しているのは、たいてい
「本人にとってのなにかの傷」
である場合が多い。
その人の網膜にうつっている「まわりにいる傷ついている人々」
それは実は、見てる本人自身の体のどこかに昔に、「しこまれてしまった」古い傷だ。

皮肉なことに「自分だけが知っている」というのは、そういう意味では、裏がえって、たしかにその通りなのだ。

幸せである、救われている、ということは
常に現在形でそこに「実際」存在している限りは、自分を含めそのまわりも幸せにしていく。それは時間を超えたよい伝染であって、意志を媒介にするものではない。

しかし、それに比べて、
未来系で「救おう」そして、その救い方を
「自分だけが知っている」
となってしまった場合は、
悲しいことに、それこそが、<この世の中で最大最強>の人を傷つける「邪悪な武器」になってしまう。

「救おう」という形をとった、本人の個人的な「傷」が、実際はまわりを単純に傷つけ駆逐していくことになる。
そして恐ろしいことにその本質が「自分はまわりよりえらいのだ」に変わってしまっていることに本人が気づかない。
そういう場合がほとんどだ。

まわりを「助けよう」「救おう」というのは、ほんとうに、紙一重でものすごいエゴにひっくりかえることもある、<もっとも危険なワードのひとつ>、と僕は考えている。
慎重に扱わなくてはいけない。そういう概念を。

身の回りで起きている、小さないざこざも、そこで原因になっているのは「言葉で表された善意」「言葉であわらされた奉仕」の場合が多い。
「あなたのことを思ってそうしているのだ」
それはほんとうに危険な考え方だ。
だまってそれをしてあげるのではどうしてだめなのだろうか?

助けたい。そういう「気持ち」になることはすばらしい。そういう気持ちになることで、まず自分がとても幸せな気持ちになれる。大事なのはそこまでだ。

言葉はおそろしいものだ。それを口に出し始めたとたん「違った効力」を勝手にうむ。

それは、その言葉を発した本人が、「ほんとうに心からこう思ってるんです」「ほんとうに感じていることなんです」といくら言ったところで、それとはまったく関係なく
物理的な作用・反作用のように

言葉でいいことをいいすぎればそれとは反対の悪い部分が
言葉で悪いことをいいすぎればそれとは反対のいい部分が

自然と出てくる。
言葉は、そういうエネルギーをうむ、「装置」でもある。
「装置」ではあるがそれは生き物ではない。
自力で、幸せである現在を認識し、それを自然にまわりに伝えていく、というような力はない。
そういう意味で、生き物のようでいて、生きていない。言葉はそういう意味で、ある意味、ものすごい手強い「魔物」である。

慎重に扱わなければ、その言葉を使う人自身が、一番最初にその罠にかかる。

才に長けた鋭さのある人は、そういう意味で、見ているとちょっとはらはらさせるところがある場合がある。まわりを助けるより、まず自分が幸せでいてほしい。単純に近くにいるものとしてはそう思う。そちらの方がまわりも幸せだ。

僕ぐらいしかいないのならしょうがないからがんばって釘でもさしたほうがいいのではないか、という気になってしまったりする。

利発で鋭く言葉が得意な人に、論戦してもまったく勝てそうにはない相手に、釘をさすなどというのは、よほど勇気も入るし、下手したらとてもこちらが傷つくことにもなる大変な作業であったりもする。
それでもがんばって釘をさすことで、その人を助けた・・・いや、違う違う。ほら、みたことか、あぶないあぶない。

そうじゃないんだ。
ほんとのことを言わなくちゃいけない。
ぼくが、その利発な人の暴力性に傷ついたから(それは僕の中にある傷だ)それをなんとかしようとして戦いに加わりたくなってしまっただけだ。
その人を助けたいのではない。釘をさす(助ける)ふりをして、暴力に参加したくなってしまったのだ。
つらい事実でも認めなきゃいけない。
そしてまずは自分を癒さなきゃいけない。「利発な人」はそのあとのことだ。

いつだって、自分の傷を暴力にかえずにどうやって癒すか、だ。
それはひとりひとりの中にある静かな「ほんとうの生きる営みだ」。

そういうわけでどんなに利発な人に囲まれても、なにもいいかえさず、やはり黙っているしかない、ということもある。
それは言葉を発してやりあうこととはまた別のひとつの、真摯な生きるための行い(戦い、ではない。)だ。

 ボブ・マーリーをはじめ、レゲエという音楽の中にある、「そういうこと」を伝えている部分が僕はすごく好きだった。「ほんとうの営み」。
 屈辱的な状況の中で、ほんとうの強さは「許す」ことだと気づいた音楽、というような表現をしていた人もいたが、ぼくは「許す」ということばは少し優しすぎるのかな、と思っている。
 「生き残る」ために、ほんとうに「生き残る」ためだけに、なにが一番必要かを本当に考えた末にできた音楽、という気はする。
 そういう音楽が、「いいですね、のんびりして、リラックスした感じで。」「なーんにも大変なことがなくて、南国で風にゆられ海辺でゆっくりしてるみたいでやってたら楽しいでしょうね」と言われるのも、すごくリアルだなぁ、と思う。けっこう演奏してる側はすごいエネルギーを使う音楽なのだが(笑)
ほんとうに普通の生きる「営み」は強さの見かけなどまとわない。

ジャマイカの陽気な島国という部分しか知らない人には、「ジャマイカ楽園の真実」というドキュメンタリーがあります。

でも、ある時期からそういうレゲエばかりではないのだな、と思うようにもなってしまったけれど。

でも、いまでも、本質は、そういう「ほんとうの強さとはなにか」「ほんとうの営みとはなにか」ということを、歌詞とかだけでなくて、音で実現した音楽だなぁ、、とは思っている。その部分を僕はほんとうに愛している。
 そのまわりにまつわるいろんな「カルチャー」は、それとは別にいろんな種類のものがあって、好き嫌いもいろいろ別れるようだけど。

2017.10.3.