あたりまえの、魔法 2

エッセイ。批評。こちらのコーナーはどちらかというと批判や愚痴などを中心に。(笑)  あたりまえの、魔法1→http://junmusic.hatenablog.com/

右でも左でもない。戦争でも平和でもない。もっとも大事なこと。ただ今、ふつうに、きちんと見る、ということ。選挙の日の朝に。

朝起きて思ったこと。
こんなことを書いてもしょうがないのかもしれないが書いてみようと思う。

どうも、
「冷静で知的な」戦争容認主義と、
「感情的で頭がお花畑な」平和主義者、
という、なんだかずいぶん単純な論議が多いなぁ、とずっと思っていた。

右か、左か、とか。だって、中国が、とか。でも中国だって、とか。

わりと単純なことを堂々と言い合っちゃう時点で、おいおい大丈夫だろうか?と思ってしまう。そういう風に見ている人は実は多いんじゃないかなと思う。

 

右とか、左とか、戦争とか、平和とか、

選挙に向けて、要は、全部「よい未来」をもとに論議している。まるでわかっているかのように。
そこで考えているかぎり、普通の人であればあるほど、なにも選べないのではないか。

だって、普通に堅実に暮らすことって、もっと予測のつかないことの連続に対応することだ。

そういう意味では、ほんとは普通の暮らしをしている人は、みんな、そういう「架空の未来」に関する論議がどれだけ<うそ>だらけか、なんとなく感じている。

健康で毎日生活することは、実は、すごくちゃんと疑っている、ということだ。

なのに、誰かを選ばなきゃいけないから、選べなくなる。


ぼくもそれで惑わされてしまったりしていた。

しかし、選挙の日の朝に、明確なひとつの考えというか

「事実」にあらためて気づく。

身も蓋もないようだが、
実際のところ、未来はわからない。どうなるか。
未来を選べる、と頭が思い込むのは実は錯覚だ。

大事なのは「現在」だ。現在だけ。

その意味では、自分は「知的」だと思っている人ほど、だまされやすいんだな、とネットの意見などを見ていてしみじみ思う。
ちょっと知的な感じの人ほど、はっきりというと、「うそ」を平気で言っている。
意図的なうそではない、、しかしだから困る。
「俺は、わかっている」
という態度。それは意図的なうそより問題がある。
だって、そんなわけあるだろうか(笑)

人は他人をだまそうと思ってだますのではない。だまそうと思ってたらなんとなくわかるからだ。
問題なのは、「自分はわかっている」と本気で思い込む人は、人を自分の下、と思う。
あるいは、あいつが悪いのだ、と思い込む。
その<態度>だけは問題だ。
そして実はそれだけのことだ。

話の内容なんて、他の動物からみたら、たとえば
「キャン、キャン、キャン!」と言っているだけのことだ。
ただ、
キャン、キャン、キャンと言って噛みつきたがる個体がいる場合がある。ということだ。噛みつきそうなときは、だいたい目が狂っている。なにかを信じてしまっているのだ。

ほんとうに、ある意味それに気づくのは怖いことだ。
それは、実は、話の内容、つまり未来や言葉はすべてあてにならないのだ、ただの「音」だ。と気づくことだからだ。
話の内容が大事なのではまったくないのだ。
狂っているか、健康か。それだけ。生命はある意味シンプルで残酷なところもある気がする。
健康だから長生きするとは限らないし、狂っているから長生きするとも限らない(笑)

ただ、狂っている態度というのは実は誰にでもすぐわかる。実はわかっている。
そしてそれは「明らかな」害がある。それが常識になるべきだ。
なのに、選べない。なぜだろうか。
どこかやはりある意味自分を含め、どこかでほぼ全員だまされているのだ。
「未来」を選べるといううそに。
「知的な」未来、「ロマンティックな」未来、どっちにしろそんなものは実はやってこない。

「正しい未来を選択する人を選ばなきゃいけない」と思っていると
選ぶことはできない。
そりゃそうだ。もともとそんなものはないのだから。

ただ、「俺はわかっている」と狂った目で、人を自分の下と思い込む

その態度にだけは直接的な「現在の」害がある。
それが今もっとも大きい問題だと思う。

今、あなたが「未来をわかっている」という理由のもとに、私を下に見ている。
それは、ただ、「狂って」いる。


未来をわかっている、と思ってしまうと人は、他人をコントロールしようとしはじめるが、実際は未来は「架空」の物語だ。
それを信じると、人は、現在の他の生命を肌で感じることができなくなる。それは病気だ。それは単なる恐怖からの逃避だ。
だから責めてもだめだ。でもとても問題だ。

それが唯一、実際に起こっていることだ。
<態度>がものすごく重要だ。

話されていることは、すべて「未来に対する架空の話」だ。
しかし、政治では常にそちらが話題の中心になっている。

つまりもともとポジティブには選択できない構造になっている。

人に上下はない、とか、そういう「主義」を言ってるのではない。
実はそんなことさえ、人間にはわからない。上があるか下があるか。

上も下もあてにならないし、未来もあてにならないし、右か左かもあてにならないし、戦争か平和かということさえ本当はあてにならない。

ただ、ひとつ。
「俺はわかっている」という「態度」は、
残念ながら根本的にまちがっている。
それこそがもっとも愚かなことだ。

それが唯一の基準だ。

話の内容でなく、「態度」で見る。それが一番実は客観的なのだと思う。

現在のこと。

「普通の私」が選ぶことのできるすっきりとした基準。

しかし、多かれ少なかれ、選挙は、
「だれがわかってるか」(話の内容)の戦いとして提示されている。
一般的にはどこかそう思われている。
そこがもっともだまされやすいところだ。トリックだ。
知的な人ほどひっかかりやすい。
「誰が未来をわかっているかを選ばなければいけない」と一般的にはそう思われている。
しかし、そこにだまされると大変な間違いに参加することになる。
気をぬくとすぐにひっかかる。
でもこういう事態が進行しているのだから、、とか。いやいや。
それは本当のところはわからない。

もともと、「この人がわかっている!」という基準で選ぶべきものではもともとないのだ。

と選挙の朝にあらためて、思う。

もともと「誰がわかってるか」の話になっているのがおかしい。
そうなる時点で、すでに未来への恐怖におののき、架空の話が中心になってしまっているというだけのことだ。

むしろ、わかってるやつは誰もいない、という前提で
クリアな目で見てみよう。

一見ばかそうに見えてもかまわない。
日常でも選挙でも、
「自分は未来をわかっている」という盲信から「人を下に見る」

という<態度>のない人を選ぶ。

というのが基準だ。

その人が、心配そうな未来を持ってきそうに一見見えても、しっかりした未来を持ってきそうに見えても、多数派に見えても、少数派に見えても、そこは別に構わない。
なぜならそれはある意味「話の内容」でしかないからだ(ひどい言い方だけど 笑)

むしろ、大事なことは、わからない、という前提で話ができる人は誰か。

なぜなら実は選ぶのは<未来>ではないからだ。
<現在>の私を選ぶのだ。
政治家に「未来」を託するのではない。
今の自分に「ふつうの」現実が見えていて、それを選ぶことができる。
それが大事だ。
現実は実はとてもすっきりとしている。
きゃん、きゃん、きゃん、といって噛みつく生命と

そうでない生命がある。

 

そしてどんな生命を選ぶかというのは、別に自分の未来のためでさえない。

だって、何を選んでも、今日の夕方には、いや、一時間後には死ぬかもしれない。
それはまた別の「私」という単なる個体の生命の話だ。しかもそれもまた「未来」の話なのだ。

大事なのは、今の生命を感じること。間違った<態度>は選べない。

それは未来のためではないのだ。残念ながら。

未来のためでなく、ただ、今、「ふつうに」きちんと見ていること。
それだけ。


そういうふうに見えてれば、
どんなに知的な人であろうが、どんなに知識がある人だろうが、どんなにパワフルな人だろうが、どんなに攻撃的だろうが、どんなに友好的であろうが、
幸せなことに、そして、少しは残念なことに(?)
自分の上に立つ人、自分をどこかに連れて行く人など、誰もいない。

あたりまえだけど。

未来をわかっている人は誰もいない。
すべては、ただの「きゃんきゃんきゃん」だ。

しかし、今、人を下に見ている「態度」は、一目でわかる。
それがもっとも危険な現実だ。ほかは架空の物語。
「態度」は大事だ。

それが常識になるといいなぁ。

「ほんとうに気をつけていただきたいなぁ」とよく思うことがある。
自分自身も気をつけていただきたい。と思う。
なにかを信じるとすぐ人を下に見たり敵にみたり。それが人間のもっともおろかなくせだ。ほんとうにおろかだ。

それは他人をでなく、自分自身を、生命全体を、損なう行為だ。
なぜならそれは単なる「幻想の盲信」だからだ。ただただ非現実だ。
狂っている、ということだ。健康でない。
言葉にだまされてはいけない。言葉で未来はやってこない。

時間は連続していない。
今だけがそこにあり、突然なにかがおこったりする。
ただ、

唯一の救い?は
「今」見えている命は、常にはっきりしていてうそがない。割合と。そこを伝えあいたい。

だまされないで、迷わされないで、
わかっていることを大事にしたい。
わかっていることは、「未来などわからない」「右も左もわからない」「戦争も平和もわからない」
ただ、人を下に見る態度はだめだ。すでに盲信している。
というすっきりしたことだ。
もとからわかっていることだ。

右も左もない。何いってるんだろう?
てやんでい、
だ。

そういう目で見れば、
ある意味全部いかがわしいが、多少なりとも害の少ないものが見えてくる。

はなからポジティブな選択などできない。
未来は託さない。
態度を見る。
そして、もっとも「害の少なそうな態度の人を選ぶ」という消極的な選択ができる。
実はそれで十分正解な気がする。

「現在」は思いのほか、とてもクリアですっきりとしている。
そういうすっきりした気持ちが伝え合える世の中でありたい。